野村克也との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 03:25 UTC 版)
江本は常々、南海ホークス時代に野村から叩き込まれた「シンキング・ベースボール(考える野球)」が自身の野球観の基本であると語っており、自身を「勝てるピッチャー」にしてくれた野村の技術力・指導力に最大級の尊敬の念を示している。「野村さんがいなかったらいまの自分は完全に存在していない」「やはり野村監督の野球理論はしっかりしていた。試合3時間前にミーティングをやって、1番打者から順に『ストライクだったら次は?もしボールだったら?』とやるんです。マウンドに立てばデータを忘れることもあるけど、『これだけ準備してきたんだ』というピッチングに集中できる」と述べている。また、メディアなどで野村の美談を披露したり、野村を批判した際にも「僕や江夏くらいしか言えないから…」と言い過ぎを示唆するようなフォローを入れる事も多く、引退後もイベントでの共演や対談などで師弟としてのつながりは継続しており、野村の生涯最後の対談相手を務めたのも江本だった。共著『超一流』製作のためのものであったが、刊行を前にして野村が死去したためにこれが最後の対談となり、2020年3月に発売された同書の巻末には江本からの弔辞が添えられた。また先述の通り、野村の没後には「南海ホークスの野村克也」を記憶にとどめるための活動に力を注いでいる。 その一方で、自身が南海を追われた経緯もあって、監督としての野村を無条件に礼賛することはなく、野村が東北楽天ゴールデンイーグルスの監督を退任した後の2011年には、自著で「ヤクルトのときは、たまたま若くて良い選手が入って来て、もともといた選手と歯車が合ったから優勝できた。阪神や楽天では残念なことに、その『たまたま』がやって来なかった」と冷静に分析し、ヤクルト時代以降の野村を「富と名声を十分手に入れたにもかかわらず、いまだに自分がどう評価されているかビクビクして、自分を大きく見せるために一喜一憂している」と評している。 野村自身は、練習嫌いで喧嘩っ早い江本に手を焼かされたという。ある日の試合で、野村のリードの通りに投球して打ち込まれた際に激昂し、降板後にベンチから野村に対して激しく野次を飛ばし続けた。江本の気性を熟知している仲間は誰も声を掛けなかったが、見かねた古葉竹識コーチが「おい、いいかげんやめとけよ」と、静かではあるがドスの効いた口調で叱ったため、荒れ狂っていた江本は恐怖心でようやく我に返ったという。 また野村は、江本と江夏、門田博光の三人を「南海監督時代の三悪人」と評しているが、この三悪人は「頭のいいヤンチャ坊主選手」という意味で、野村は必ずしも悪い意味で使っていない(なお、鶴岡一人は監督時代に当時現役選手だった野村と広瀬叔功、杉浦忠を「南海の三悪人」と呼んでいた)。野村は自著で「この三悪人に監督として鍛えられたおかげで、他のチームで少々クセのある選手がいても全然平気になったよ。山﨑なんてあの三人に比べたら『フーン』くらいのレベル」と述べている。
※この「野村克也との関係」の解説は、「江本孟紀」の解説の一部です。
「野村克也との関係」を含む「江本孟紀」の記事については、「江本孟紀」の概要を参照ください。
野村克也との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 07:14 UTC 版)
楽天時代には野村就任の話を聞いて、自分とは野球観が合う訳がないと考えていたため、引退後のインタビューで、野球人生の終わりを当初は感じたという。しかし関係が深まるにつれ、やりたくないとまで思っていた野球を再度面白いものだと思わせてくれた恩人として、現役時から現在に至るまで各方面で野村に対する感謝の意を述べている。 「とにかく初めて野村監督とお話させてもらったときはに全否定されましたね。うまくやっていけるのかなと、そんな不安で始まったんですけど、日に日にいいお言葉をいただいて、可愛がっていただきました。野村監督じゃなければ2回目のホームラン王は絶対になかった。足を向けて寝られないですね」「年をとってしまうとパワーもスピードも全てにおいて衰える。『最後に使うのは頭だぞ、頭を使え』と再三言われて。(最初は)どうやって(頭を)使っていいか分からなかったんですけど、タイトルを獲ることができた」「一番印象に残っていることは『野球を好きになれ』ということ。『もっともっと野球を好きになりなさい』と言われました」 「実のところ、僕は子供の頃から『野球をやらされている』と思っていたので楽しくはなかった。大嫌いだった。現役を27年間やりましたが、野球が楽しいと思ったのは野村監督との4年間だけです」「僕にとって野村監督はオヤジです。野球以外でもかわいがってもらっていた。ずっとオヤジだと思って引退後も付き合っていました」。 「僕はこういう性格だから『監督を男にしたい』なんて思ったことがなかった。自分のため、家族のために野球をやっていた。でも野村のおやじだけは違った。唯一『胴上げしたい』と思った監督だった」
※この「野村克也との関係」の解説は、「山﨑武司」の解説の一部です。
「野村克也との関係」を含む「山﨑武司」の記事については、「山﨑武司」の概要を参照ください。
野村克也との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 08:05 UTC 版)
1995年に近鉄からヤクルトへ移籍。その時の監督が野村で吉井はメジャー移籍後、そして引退後もことあるごとに野村への感謝の言葉を口にしている。 「近鉄でそれほど活躍していなかったのに一人前扱いをしてくれて、3年間大事に使っていただきました。言葉とは裏腹に選手をすごく大事に思う使い方をしてくださった」 「本当に尊敬する方。全ての面で影響を受けました」 「近鉄の時は何も考えず投げていた。まさに野蛮な勇気だったが、ヤクルトでID野球に接し、準備することの大切さを知った」 「言葉とは裏腹に、選手のことをすごく大事に思ってくれる起用の仕方をしていた。それは自分がコーチになって気づいた部分でもあります」 「最も影響を受けたのは、選手がやることを尊重する、理由あってやっていることをしっかり認めてあげる、ということ。指導者としても大事にしています」 「選手をやる気にさせるのがすごくうまい監督でした。たとえば、先発で投げていて、終盤に打たれて負けたとします。でも次の試合でも、また同じような場面で使ってくれるし、ピンチがきても替えないのです。普通なら、一度失敗したら、替えますよね。でも、野村監督は、一度失敗しても、また使ってくれるんです。起用方法で選手のやる気を引き出すのがうまい。ある意味、情に厚い監督です。野村監督というと、ID野球、データ野球というイメージがあるかもしれません。もちろんデータは大事にするのですが、データ通りにやれということではなく、たとえば、マウンドでパニックになったときに自分を取り戻す材料としてデータを使いなさい、準備として頭に入れておきなさい、という考え方でした」 など、吉井の感謝の言葉は尽きない。 なお、コーチ経験を積んだ今、あらためて振り返ってその教えが参考になっている指導者は?の問いには野村と共に近鉄時代の投手コーチだった権藤博の名を挙げている。
※この「野村克也との関係」の解説は、「吉井理人」の解説の一部です。
「野村克也との関係」を含む「吉井理人」の記事については、「吉井理人」の概要を参照ください。
- 野村克也との関係のページへのリンク