野村克也との確執とは? わかりやすく解説

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野村克也との確執

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 09:58 UTC 版)

門田博光」の記事における「野村克也との確執」の解説

南海時代野村克也ソリが合わなかった。門田フルスイング持ち味としているが、野村からは「大振りをやめろ」と再三注意された。門田はそれを聞くことなく自分スタイル貫いて2年目からレギュラー掴んだ野村門田契約更改交渉の場に入ってきて、「まだまだ働き足らん大きなと言える立場じゃないよ」などと、門田年俸アップの足を引っ張ったこともある。生一本門田気性見通したプレイングマネージャー選手操縦法という見方もできるが、門田はそう取らなかった。衝突決定的になったのは野村愛人問題であり、「グラウンドにヨメハン連が出てくることはない。野村さんにはとてもついていけない」と咬みついた。1975年終盤から少しの感情ズレからエスカレートし野村が「任意引退させる。」、門田が「あんな監督の下ではやれん。」と言い争いになった和解にしている。野村解任され1977年には、当時野村愛人だった伊東芳枝から電話で、「あんたが野村言うことを聞かない起用しない」と言われたという。秋季練習の後、中百舌鳥合宿野村に、「君達思っていることを俺に話してほしい」と言われ、手を挙げたのが門田江本孟紀、それに西岡三四郎であった。そこで言葉行き違いがあり、「もう練習にこなくてもいいと言われたので、「はい、分かりましたと言って練習参加しなくなり、「門田野村監督対立」などとスポーツ紙書かれ騒がれたという。ただし、門田本人自著で「そんなに大げさなものではなかった」と述べている。 野村自著で、南海監督時代に手こずった門田江本江夏豊の3人を「南海の三悪人」呼び、「選手として一流になれても、指導者にはなれない」と語っている。野村解説者時代の「週刊朝日」の連載 でも「最後野球バカ門田博光」と題し、「何かを言えばそれと反対ことをする男である」と評している。 しかし一方で野村門田実力大い認めている。先述通り門田を見い出して3番抜擢したのは野村であり、「ものすご頑張り屋」とも評している。門田も従うべきところでは従っていたといわれ、また「『二塁桜井ライト門田10年不動のままでいける』と野村言ってもらい、信頼厚くて助かった」とも述べている。 野村3000試合出場記念記録立てた試合1980年8月1日 西武-南海戦)で、門田は「こういう時に野村さんに恩返しをしたい」と言ってきたという。何をしてくれるのかと思っていたら、キャッチャーマスクをかぶった西武野村目の前で特大ホームランを2打席連続放ったその後、3打席目に立った門田に「もう分かったから、ええ加減にしとけや」とボヤくと、「二塁打すませてくれた」のだという。 南海後継球団である福岡ソフトバンクホークスでは、2013年に(南海時代からの通算で)ホークス創設75周年記念したプロジェクトLEGEND HAWKS」を展開。8月31日の対楽天戦(福岡 ヤフオク!ドーム)の試合前に開かれた記念セレモニーには、野村と共に南海時代復刻ユニフォーム姿で登場した始球式では、球団会長立場で「見届け人」として参加した王貞治見守られながら、同ドームの左打席野村は右打席)に立った2020年野村訃報門田知ったのは、自身通院していた兵庫県内病院流れたテレビ速報であった訃報に際してインタビュー受けた門田曰く最後に野村会ったのはこの前年(2019年)の東京でのとある会での事であったが、そこで既に車椅子姿であった野村門田に、「とことん打撃追究する門田ほどの野球バカは、もう二度と出てこんやろうなあ」と親しみ込めて認めてくれたという。

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野村克也との確執

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 04:29 UTC 版)

伊原春樹」の記事における「野村克也との確執」の解説

1年限り阪神から西武復帰したことから、野村克也とは不仲とされている。阪神退団理由家庭の事情よるものとしているが、当時阪神のチーフスコアラーだった三宅博確執原因辞任した記している。 野村率い楽天との交流戦2008年5月29日)で、楽天2点リードの9回二死一塁矢野謙次盗塁失敗しゲームセットになる。試合後、野村は「バッカじゃなかろかルンバ巨人面白野球をするね、野球意外性スポーツ」とコメントし、これをマスコミ総じて巨人ベンチ凡ミス野村指摘」という論調取り上げた[要出典]。 翌2009年交流戦巨人楽天に4戦全勝すると、伊原報道陣の前で「野村監督さま、今年交流戦は4連勝させていただきありがとうございます。これもひとえにノムラ考え』のおかげでございます昨年いただいたお言葉は非常に参考なりました今日1年間お預かりしていた、あのお言葉そっくりそのままお返しさせていただきますバッカじゃなかろうか〜、ルンバ!」と野村こき下ろした。 なお、伊原野村選手時代1979年から1980年までともに西武在籍した同僚同士でもあり、1980年シーズンいっぱい揃って引退している。

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