野村克也との出会い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 04:04 UTC 版)
1970年8月、南海ホークスの選手兼任監督であった野村克也は、18日から20日に後楽園球場で開催される対東映フライヤーズ戦のために上京。宿泊先の原宿のホテルに程近い行きつけの高級中華料理店を訪れた際に、沙知代と相席になり一緒に食事を取りながら談笑した。これが二人の出会いであるという。それからしばらくして沙知代は克也と愛人関係になり、1972年頃には克也は本妻と別居状態になった。この時点では克也の婚姻関係のみならず、沙知代自身の婚姻関係も解消されていなかったことから、両者はダブル不倫の状態であった。 克也はこの当時の状況について、本妻はお嬢様育ちで家事をまともにやらず、そのうえ浪費癖も酷く、さらには本妻の方が既に他の男と不倫関係にあったので、沙知代と知り合う以前の1968年の時点で本妻に対して離婚を要求し別居していたと主張しており、また沙知代との関係についても、沙知代を囲い始めた頃に南海球団オーナーの川勝傳に報告し、「プライバシーやから何もいわん」との返答を得て関係を承認されていたと主張しているが、これに対して克也の長男(本妻との間の子)は、父の克也が突然自宅に帰ってこなくなったのは1973年頃であり、母(本妻)は大人しく家庭的な人で料理等の家事もきちんとこなしていたと証言しており、沙知代の実弟・信義もこの長男の証言内容を全面的に認めている。 克也が自宅へ戻らなくなった頃、克也のチームメイトであり親友でもあった広瀬叔功が忠告したが、克也は広瀬の忠告を聞き入れず、逆にこれ以降広瀬を疎んじるようになった。広瀬は自著で沙知代について「球場へ出入りするなどしたことも私は快く思っていなかった。以心伝心というものか、彼女も私が嫌いだったのだろう。用兵にまで口出したかどうかは知らないが、73年頃から私の出番は確実に減っていった」と述べている。
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