野球人生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 09:16 UTC 版)
一方野球では、混乱の続くプロ野球界で最高委員を務めるなど、野球界にも多大な影響を与え、いわゆるV9の巨人黄金時代の川上哲治監督に大きな影響を与えたといわれるアル・キャンパニスの『ドジャースの戦法』を翻訳したのも内村である。 1962年5月、日米の野球に精通した人物として内村は日本野球機構第3代コミッショナーに就任。サンフランシスコ・ジャイアンツへ野球留学中にメジャー出場した南海ホークスの村上雅則の保有権を南海・ジャイアンツ両球団が争った際には1965年シーズン終了を以て南海に復帰させるという妥協案を提示して解決された。第1期の任期満了間近の1965年4月、内村は札束競争にまみれてプロ野球界に入ってくる新人選手をうれい、新人研修制度を行おうと提案したが、オーナー陣の激しい抵抗にあい、自らコミッショナーの職を降りた。おおむねコミッショナーはオーナー側寄りであると批判されている中、オーナー側と対立してコミッショナー職を辞したのは内村1人である。このとき、「どんな医者でも完治の見込みがなければ患者を見放すものだよ」とコメントし、自分を推薦しておきながらその提案を飲まないオーナー陣を痛烈に批判した。 後にコミッショナーを務めた下田武三によると、コミッショナーの職を辞した後は一度たりとも球場に足を踏み入れず、存命中は特別表彰による殿堂入りも拒否したという。 このように、コミッショナーとしては思うように手腕を発揮できなかったが、日米の野球に精通した知識人として日本の野球の近代化に貢献した点が評価され、没後3年を経過した1983年、特別表彰として野球殿堂入りした。
※この「野球人生」の解説は、「内村祐之」の解説の一部です。
「野球人生」を含む「内村祐之」の記事については、「内村祐之」の概要を参照ください。
「野球人生」の例文・使い方・用例・文例
- 台湾生まれの強打者,大豊泰(やす)昭(あき)さんは昨年,中日ドラゴンズと阪神タイガースでの14年間のプロ野球人生の後,引退した。
- 松井選手は「僕の野球人生の原点である田んぼのど真ん中にとんでもないものが建った。みなさんにはここに来ることを楽しんでもらえると思う。」と語った。
- 松井選手は,「メジャーリーグに移籍したとき,ぼくは命懸けで野球をしようと考えました。ずっと全力を注いできましたが,もはや達成したい結果を出すことができません。だから,野球人生に終止符を打とうと決めました。」と語った。
- 野球人生のページへのリンク