飯田監督時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 09:28 UTC 版)
「福岡ソフトバンクホークス」の記事における「飯田監督時代」の解説
1969年 この年よりキャンプを呉から温暖な高知とするものの、同じ高知にキャンプを張った阪急や阪神に比べ立地条件が悪く、この年は全国的に多雨でキャンプは失敗だったとされる。前年31勝の皆川睦雄が開幕直前のオープン戦で右手人差し指を複雑骨折。さらに村上雅則・三浦清弘・新山彰忠と投手陣に故障が相次ぎ、野村克也も2度の突き指と2度の肉離れで調整不足のまま開幕を迎えた。開幕2連戦を連続してサヨナラ負けで序盤を3勝7敗、その後7勝3敗で5割、3位に浮上したが、6月には15連敗を記録。開幕後も広瀬叔功・ドン・ブレイザー・小池兼司など主力打者に故障者が続出したことにより打線が低調で、パ・リーグで唯一の100本以下の本塁打となる85本に終わり、パ・リーグとなって初の最下位に転落した。飯田は1年で監督を辞任し、後任として選手兼任で野村が就任。ドラフトでは門田博光が入団。 野村はヘッドコーチに前年で南海を退団していたブレイザーを招聘し、野村ID野球の原点となる「シンキング・ベースボール」をスローガンとした。この年発生した黒い霧事件では南海からは佐藤公博がオートレース八百長行為をしたとして永久追放処分を受けている。
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