黒い霧事件
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黒い霧事件(くろいきりじけん)
- 黒い霧事件 (政界) - 1966年後半、自民党を中心に相次いで発覚した一連の不祥事。
- 黒い霧事件 (日本プロ野球) - 1969年から1971年に日本プロ野球を舞台にした八百長をめぐっての一連の騒動。
- 1972年に起きた日本プロボクシング界の分裂騒動。「協栄ボクシングジム#黒い霧事件」を参照。
- 東京都議会黒い霧事件 - 1965年、東京都議会で自民党を中心に相次いで発覚した一連の不祥事。
- 茨城県議会黒い霧事件 - 1967年後半、茨城県議会の議長選出で買収工作が発覚した不祥事。
関連項目
黒い霧事件
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1969年10月8日、読売新聞と報知新聞が永易が公式戦で八百長を演じていたと報じ、球界内外に衝撃を与えた。永易はこの年の7月の大阪スタヂアムでの対南海戦で、打ち込まれたにもかかわらず悪びれた様子も見せない態度を見て、球団社長の国広直俊が不信感を抱いた。国広は永易を呼び、八百長をやっているのではないかと問いただしたが、永易は否定も肯定もせず震えているばかりで何も話さなかった。国広は、この永易の態度から永易が八百長を演じていたと確信した。 報道を受けて福岡市内の永易の自宅には報道陣が殺到したが、永易は「八百長はやってないです。だが今は何を言っても信じてもらえない」と言うと普段着のまま出かけて行った。永易は結婚していたが1969年の12月に離婚する。その後、世間の目を逃れるため、別の恋人の故郷である札幌で共に暮らしていた。 その間、永易の件に端を発した八百長事件は3月に入ると「黒い霧」として国会議員が解決に乗り出すなど政治問題化していった。永易はかつて取材を通じて面識があったルポライターの大滝譲司と再会し、自分の八百長と自分以外に八百長に関わった西鉄の選手の名前、さらに西鉄球団から口止め料として約550万円を貰っていたことを告白した。これらの永易の告白は週刊ポスト、内外タイムス、フジテレビのテレビ番組「テレビナイトショー」ですべて大滝がインタビュアーとなって記事となった。ただし実名は伏せられた 4月10日、永易は衆議院第二会館にて記者会見し上記にあげた西鉄6選手の実名、さらに田中勉、佐藤公博の投手の名前を挙げた。永易の告白に対して当初、西鉄球団は真っ向から否定したが、西鉄の楠根宗生オーナーは「更生資金」として渡していたことを後に認めた。永易発言がきっかけとなって西鉄球団の黒い霧が明らかとなった。 また、永易は古巣の東映フライヤーズの選手の森安敏明、田中調にも八百長を誘っていた。田中は八百長を断ったが、森安は永易から八百長の報酬である50万円を貰ったことを認めたため1970年7月に永久追放処分を受けた。 永久追放後の1970年5月より札幌でバーを開いていた。 週刊新潮の2005年6月9日号によれば、永易が2003年4月に病死していたと報じた。61歳没。
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