黒い霧事件
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黒い霧事件(くろいきりじけん)
- 1 黒い霧事件とは
- 2 黒い霧事件の概要
黒い霧事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 03:48 UTC 版)
1969年10月8日、読売新聞と報知新聞が永易が公式戦で八百長を演じていたと報じ、球界内外に衝撃を与えた。永易はこの年の7月の大阪スタヂアムでの対南海戦で、打ち込まれたにもかかわらず悪びれた様子も見せない態度を見て、球団社長の国広直俊が不信感を抱いた。国広は永易を呼び、八百長をやっているのではないかと問いただしたが、永易は否定も肯定もせず震えているばかりで何も話さなかった。国広は、この永易の態度から永易が八百長を演じていたと確信した。 報道を受けて福岡市内の永易の自宅には報道陣が殺到したが、永易は「八百長はやってないです。だが今は何を言っても信じてもらえない」と言うと普段着のまま出かけて行った。永易は結婚していたが1969年の12月に離婚する。その後、世間の目を逃れるため、別の恋人の故郷である札幌で共に暮らしていた。 その間、永易の件に端を発した八百長事件は3月に入ると「黒い霧」として国会議員が解決に乗り出すなど政治問題化していった。永易はかつて取材を通じて面識があったルポライターの大滝譲司と再会し、自分の八百長と自分以外に八百長に関わった西鉄の選手の名前、さらに西鉄球団から口止め料として約550万円を貰っていたことを告白した。これらの永易の告白は週刊ポスト、内外タイムス、フジテレビのテレビ番組「テレビナイトショー」ですべて大滝がインタビュアーとなって記事となった。ただし実名は伏せられた 4月10日、永易は衆議院第二会館にて記者会見し上記にあげた西鉄6選手の実名、さらに田中勉、佐藤公博の投手の名前を挙げた。永易の告白に対して当初、西鉄球団は真っ向から否定したが、西鉄の楠根宗生オーナーは「更生資金」として渡していたことを後に認めた。永易発言がきっかけとなって西鉄球団の黒い霧が明らかとなった。 また、永易は古巣の東映フライヤーズの選手の森安敏明、田中調にも八百長を誘っていた。田中は八百長を断ったが、森安は永易から八百長の報酬である50万円を貰ったことを認めたため1970年7月に永久追放処分を受けた。 永久追放後の1970年5月より札幌でバーを開いていた。 週刊新潮の2005年6月9日号によれば、永易が2003年4月に病死していたと報じた。61歳没。
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黒い霧事件
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詳細は「黒い霧事件 (日本プロ野球)」を参照 1969年から1971年にかけて起きた八百長事件で、主力だった池永正明などが関与して池永は永久追放処分を受けた(後に解除)。詳細については上記を参照とのこと。
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黒い霧事件
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1972年4月、西城正三やアベジム所属プロボクサーだった金沢和良のキックボクシング転向を巡り、協栄ジムと日本協会が対立。また、モハメド・アリ(当時はカシアス・クレイ)の初来日興行は協栄ジムに委託されたが、アリのプロモートには黒社会が関わっていたこと(後に来日興行を手掛けた興行師康芳夫がコメントした)もあり、金平会長は協会より除名された。5月に金平会長らの手により別の協会(団体名は同名。以下便宜上「第二協会」)を設立し分裂状態になった。 1976年11月に日本協会と第二協会が再統合され、1980年に金平会長は協会と正式に和解。協会会長に就任した。
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