南海時代~野村との野球観
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 22:47 UTC 版)
「ドン・ブラッシンゲーム」の記事における「南海時代~野村との野球観」の解説
南海入団後は、本名の「ブラッシンゲーム」が各球場のスコアボードに書ききれないため、愛称の「ブレイザー」を登録名とし、そのまま日本での呼称となった。 併殺時の素早い足の運びとグラブ捌き、正確な送球は健在で、打撃面でも勝負強いバッティングを見せ、攻守に渡って質の高いプレーで格の違いを示し、1967年・1968年と2年連続でベストナインを受賞した。またブレイザーはバントの技術にも長けており、セーフティバントは三塁線ギリギリに転がすことが多く、切れそうで切れないゴロは芸術品とも言えるほどだった。前述のように基本動作を何度も繰り返すことから、派手さは無いが技術の確実性は非常に高く、さらに捕球してから送球までの流れが速いことから、南海の投手陣は「困ったらドンの方向に」が合言葉だった。 1969年シーズンを最後に引退し、1970年からは南海のヘッドコーチに就任した。この年、野村克也が「南海再建を託せるのは君しかいない」とオーナーの川勝傳から要請され、35歳の若さで選手兼任監督となったが、その際に野村が挙げた条件が、ブレイザーのヘッドコーチ就任だった。ヘッドコーチとしては1973年のパ・リーグ優勝に貢献したが、1977年のシーズン終盤に野村が公私混同を理由に解任されたのに合わせて退任した。 野村は「ブレイザーがヘッドじゃなきゃ監督は引き受けなかった」と語っている。野村はブレイザーについて、「考える野球を教えてくれた恩人」と著書で記しており、ブレイザーは試合前のミーティングにてそれまで南海の選手が見たことも聞いたことも無かった野球理論や知識を惜しげもなく伝授し、「シンキング・ベースボール」の奥深さを教えた。ただ一試合、一試合をこなすのではなく、その試合毎に緻密な野球を組み立てる方法で、日本プロ野球界に革命をもたらした。 また野村は、ブレイザーを何度も食事に連れ出し、メジャーで生き残る秘訣を訊いた。ある日野村は、ブレイザーから「君が打者の時、ヒットエンドランのサインが出たらどうするか?」と聞かれ、「フライと空振りはダメ。どうにかして打球を転がす」と答えたが、ブレイザーは「それだけか?」と聞き返し、「まだあるぞ。走者がいるということは必ずセカンドかショートが二塁ベースカバーに入るから、セカンドが入れば一二塁間、ショートが入ったら三遊間方向に打球を転がすんだ」とさらりと答え、野村は感服した。このことから、野村は「自分のID野球の源流はブレイザーにある」と常々語っている。 当時、南海の現役選手だった江本孟紀は、「日本流の単純な根性論とは180度異なる野球観。相手の癖や性格を分析し、ゲームの状況に応じて戦略を臨機応変に切り替えるという、極めて頭脳的なスポーツの世界である。野村監督の試合前の想定問答はブレイザー直伝である」と記している。
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