南海球団との争いとは? わかりやすく解説

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南海球団との争い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 04:04 UTC 版)

野村沙知代」の記事における「南海球団との争い」の解説

1973年7月23日には、克也との間に克則が誕生したが、克也は当初、克則を認知しなかったため、沙知代は克則を実父・巳之吉の養子にしようとしたという(翌1974年6月に克也は克則を認知)。この頃から沙知代は、南海チーム運営口を出すなどの行為が目立つようになり、選手たちの不満が渦巻くようになった門田博光には「野村方針文句を言うな。文句を言うなら試合使わないわよ」と電話掛けたという。 1975年秋、ついに我慢の限界達した選手たち沙知代排除計画し中百舌鳥球場行われた秋季キャンプで克也が選手意見求めた際に、門田博光西岡三四郎江本孟紀の3人が「"カゲ"の監督がいるせいで選手気持ちよくプレーできない雰囲気になっている」という旨の発言をして現状是正求め11月には西岡江本藤原満の3人がチーム代表して大阪市内ホテルで克也に「公私混同止めてください」と直訴した。 一方球団フロント職員の間にも沙知代対す不快感広がっており、長嶋茂雄監督初年度最下位終わった読売ジャイアンツ投手補強のため南海トレード申し込んで来た際に、南海球団幹部が「野村巨人行きたがっている」という情報流した巨人フロントはこの情報興味示し佐伯文雄常務と張江五広報窓口となって克也の獲得交渉進め選手兼任ヘッドコーチとして克也を巨人移籍させることで条件まとまり、克也本人巨人への移籍喜んで承諾していたが、結局不成立終わった長嶋反対したためであるという。 留任決まった克也は反沙知代派の粛清乗り出し首謀者と見なされた西岡12月中日ドラゴンズへ、江本翌年1月島野育夫と共に阪神タイガースへと、それぞれ交換トレード放出された。沙知代はこの時、門田他球団放出させよう画策したが、川勝オーナーが克也に「門田だけは出すこと相成らん」と釘を刺したため、門田放出阻止された。 1976年5月17日アルヴィンとの離婚成立8月には「芳」から「沙知代」へと改名した沙知代監督室に出入りしたり、コーチ会議に口をはさんだり、選手夫人たちに対して沙知代私的に作った南海優勝させる会」なる集まりへの参加強要した。そのため選手たち1977年に再び沙知代排除計画し選手たち訴え聴いた森本昌孝球団代表は、8月中旬に克也を呼び出して最終警告発した。克也が後見人である天台宗高僧葉上照澄訪ねて相談したところ、上は克也の不品行厳しく叱り、「女(沙知代)を捨てなさい。でなければ野球ができなくなる。女を取るか、野球を取るか、道は二つに一つしかない」と懇々説諭した。ところが、外に控えていた沙知代その場闖入し、上から直ち退去するよう命じられると、沙知代上を激しく罵倒した。克也はこの時の沙知代行動を「溜飲がさがる思いだった」と述懐している。 しかし、この一件でついに川勝も克也を庇いきれなくなり9月13日行われた川勝オーナー森本球団代表上大阿闍梨飯田新一球団後援会長(髙島屋社長)の四者会談で、「野村公私混同甚だしく沙知代排除するためには野村解任止むを得ない」との結論達した球団側は温情措置として克也に対し自主的な辞任促したが、克也が拒否したため、克也は9月25日シーズン終了待たず2試合残して解任された。 記者会見の後、克也は『週刊文春』に「独占手記」と題する文章発表したその中で克也は、沙知代監督室に入り込み選手電話をして野球の事に口出しをするなどの現場介入繰り返しているなどという話は全くのデマであると主張し本妻広瀬叔功夫妻杉浦忠小池兼司らを激しく非難するとともに、その背後には球団の「元老」である鶴岡一人存在があると主張した。克也は、鶴岡が自らの権勢維持するため、克也を排除して自分忠実な広瀬監督にしようと画策し鶴岡意を受けた広瀬小池デマ流して自分の足を引っ張りチーム統制乱していたと主張した。また克也は、1965年蔭山和夫監督就任直後急死した一件真相は、鶴岡一派嫌がらせをされて精神的に追い詰められことによる自殺であると主張し今回解任劇沙知代濡れ衣を着せることで球団改革進めていた自分抹殺しようとする鶴岡一派仕組んだ陰謀であり、1975年門田江本の「造反」もそうした陰謀一環であった主張した。 克也はその後一貫して沙知代現場介入をしたなどという話は全くの事実無根であり、鶴岡一派自分と沙知代陥れるために流したデマであると主張し続けていたが、沙知代死後になって結婚した采配口出し来て、私がいない間にコーチ結果残せない選手しっかりしなさいと言っていたみたい。私も止められなかった」と、沙知代現場介入事実であったことを認めた。 また後に、大阪球場跡地建てられなんばパークス内に「南海ホークスメモリアルギャラリー」が設けられたが、このギャラリーには本人からの許可得られなかったとして、克也に関する物を一切展示できなかった。その原因について沙知代は克也との共著の中で「その施設造るときに南海電鉄から連絡ありましたが、私がすべて断ったからです」と述べ、「その電話があったことは、主人には伝えませんでした」と、沙知代独断展示拒否した述べている。なお、沙知代野村死亡後2020年10月に、江本孟紀らの斡旋により、遺族である克則が同ギャラリーに克也に関する事項物品展示承諾したため、克則の所有する克也の遺品等がギャラリー展示されることになった

※この「南海球団との争い」の解説は、「野村沙知代」の解説の一部です。
「南海球団との争い」を含む「野村沙知代」の記事については、「野村沙知代」の概要を参照ください。

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