南海進出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/01 08:07 UTC 版)
霊渠が建設されたことで、秦は南方への遠征軍に莫大な物資を供給できるようになった。この運河は、長江の支流である湘江上流部と、南海にそそぐ珠江の支流である西江を結ぶというものである。この建設事業は単なる軍事目的にとどまらず、秦を南シナ海を通じてインド洋まで至る海洋貿易網に接続させる狙いもあった。秦にとって南シナ海は、東南アジアやインド亜大陸、近東、そして地中海ローマ世界にまで至れる遠大な可能性をもつ海であった。また霊渠は、嶺南から捕虜を移送し、秦の領域を南へ押し広げる役割も担った。最終的に、秦軍はその圧倒的な兵力と組織力で、百越の諸族を破った。紀元前214年までに、広東、広西、北ベトナムが秦の支配下に入った。また秦軍は、広州周辺や福州、桂林といった周辺の沿岸地帯も押さえていった。これらの征服地に、秦は南海郡、桂林郡、象郡の三郡をおいた。各郡には中央から派遣された官吏や軍が駐留し、秦領となった沿岸地域は国際貿易の舞台となった。この頃の広東は、亜熱帯の気候のもとで開発が進んでいない森やジャングル、沼地が広がる地域であり、象やワニが生息していた。戦争を通した嶺南征服が完了すると、始皇帝は越の人々の中国化を推し進めた。中国北部から50万人の人々が嶺南に移住させられ、ここを植民地化した。このようにして始皇帝は中国の文化を華南に流入させ、土着の越の文化を排除し、百越が再独立を志さないようにした。また始皇帝は、従来の越の筆記法を廃止して秦の筆記法と言語を嶺南にも導入した。しかしこうした始皇帝の施策にもかかわらず、まもなく秦が凋落した隙に、百越は独立を回復した。
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