南海鉄道への合併・国家買収
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 22:52 UTC 版)
「阪和電気鉄道」の記事における「南海鉄道への合併・国家買収」の解説
阪和電鉄は、海岸部の古くからの街道筋を走る南海鉄道に比べると、内陸の開発途上の人口希薄な地域を走るため区間輸送需要に乏しく、また和歌山は京都や神戸に比して都市規模が小さいことから、両社は少ない直通客を取り合うことにもなった。しかも和歌山市の中心部に近い場所にある南海の和歌山市駅とは違い、中心部から離れた所に和歌山のターミナル駅を造らざるを得なかったという点もまた、阪和にとっては不利であった。結果的に後発の阪和の経営基盤は、常に不安定であった。乗客が伸び悩んで新車の投入資金も調達できなくなっていたため、室戸台風からの復興期や前述の浜寺海水浴場海水浴客への海水浴客で多数混雑する夏季には鉄道省(後の国鉄)や大阪電気軌道吉野線から車両を借り受けて運行を行っていたこともあった。 それでも1938年上半期決算からは、それまでの累積赤字を営業努力によって解消させ、株主への利益配当を行うようになっていた。しかし粉飾決算疑惑なども取り沙汰され、1937年には当時の社長・木村清が自殺するなど、経営面の混乱が続いた。そしてついには、京阪電気鉄道が阪和から手を引くことになる。 1940年10月には紀勢西線が孤立線区の紀勢中線に接続して紀伊木本(現・熊野市)にまで延伸され、直行列車は天王寺-新宮間263kmを6時間フラットで走破した。しかし同年12月1日、阪和電気鉄道は南海鉄道に吸収合併され、同社の「山手線」となる。これは両社を合併させることで紀勢西線への直通列車に関するダイヤ改正交渉を一元化できる鉄道省や、1938年に公布された「陸上交通事業調整法」に基いて過度な競争を抑えて軍事輸送を強化したい国の意向によるものであった。 この時、国としては阪和電鉄買収の意思もあったが、1940年の時点では実現しなかった。阪和電鉄線は高規格であるため、買収費用が高額となることが予想された。また当時日中戦争の戦費確保が優先されていたために、買収資金調達のための国債発行も困難であった。このような事情から買収が見送られ、代わりに南海への合併という形で当座の措置としたと言われる。 ほどなく日本は太平洋戦争に伴う戦時体制に突入したが、南海は輸送量増大と酷使が原因の車両故障多発に応じ、山手線には優先して新造車や人員を投入した。また利便性を考慮して、1942年2月15日には高野線と山手線の交点に三国ヶ丘駅を設置している。 古くから阪和間の独自ルートを希求していた鉄道省はこの時勢に乗じ、懸案であった南海山手線の買収を決定した。南海からの反発も排され、山手線は1944年5月1日、戦時買収により国有化、国有鉄道阪和線となった。なお、南海鉄道は、同年6月、関西急行鉄道と合併して近畿日本鉄道となった。近畿日本鉄道は、その後1947年に旧南海鉄道の営業路線については南海電気鉄道に分離している。 戦後、南海電気鉄道関係者から阪和線の返還運動、また旧経営陣や沿線住民(特に南田辺・東和歌山駅近辺)から阪和電鉄再興運動が起こされたが、いずれも実現しないまま現在に至っている。また和歌山県の紀中・紀南や三重県南牟婁郡などの紀勢本線沿線(特に三重県鵜殿村等)からは逆に、これら阪和線の再民営化に対する反対運動も起こった。
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