戦時体制
戦時体制
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「橘丸」は1938年(昭和13年)6月27日付で日本海軍に徴傭され、2日後の6月29日に呉鎮守府籍となる。呉海軍工廠において特設病院船としての改装工事を受けるが、その塗装は戦時国際法の規定とは異なり、明灰色に赤十字の標識を描いただけのものだった。改装後はただちに揚子江へ赴き、傷病兵の収容に従事する。しかし、7月29日に鄱陽湖にて中華民国軍機7機による空襲を受ける。爆弾自体は116ポンド(約50キロ)爆弾であったが、うち2発が「橘丸」への至近弾となり、左舷部の破口からの浸水を止めきれず浅瀬に座礁の後横転してしまった。「橘丸」は9月に入って浮揚し、江南造船所(英語版)で仮修理の後、三菱神戸造船所で本格的な修理に入った。その間の11月8日に日本海軍籍から除かれ、翌1939年(昭和14年)3月2日に解傭された。 修理後、解傭された「橘丸」は東京湾汽船に復帰するが、依然として伊豆方面の観光事情が芳しくなかったので日清汽船に傭船され、上海 - 南京 - 漢口方面にて運航された。しかし、12月7日に「葵丸」が伊豆大島乳が崎海岸で座礁沈没したため、大島航路に復帰する事となった。もっとも、復帰したとはいえ「大島ブーム」は沈静化しており、代わりに南房総への海水浴客輸送や鳥羽港まで「お伊勢参り」用のチャーター便としても活動した。太平洋戦争勃発後の1942年(昭和17年)5月に船舶運営会が組織され、「橘丸」も例外なく所属する事になったが、依然として大島航路に就航していた。 「橘丸事件」を参照 1943年(昭和18年)3月、「橘丸」は日本陸軍に徴傭される。約半年間輸送船として行動の後、昭南(シンガポール)停泊中の10月7日付で陸軍病院船として再徴傭され、10月9日には中立国経由で連合国側に通告された。陸軍病院船に転じた「橘丸」はニューギニア方面に進出するが、昭和19年3月14日に南緯02度14分 東経124度37分 / 南緯2.233度 東経124.617度 / -2.233; 124.617の地点を航行中にB-24の爆撃と機銃掃射を受ける。その後は、1945年(昭和20年)8月にいわゆる「橘丸事件」で拿捕されるまでフィリピン、ハルマヘラ島方面などで行動した。
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戦時体制
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満州事変の翌年には上海停戦協定が締結されたものの、五・一五事件・二・二六事件・日中戦争と軍色が強くなるにつれ、電力事業の国家による統制が望まれるようになった。1938年(昭和13年)には「国家総動員法」に併せて「電力管理法」、「日本発送電株式会社法」、「電力管理に伴う社債処理に関する法律案」、「電気事業法」が制定された。また創立50周年を記念し、商工大臣の許可を得て、同社寄付金により財団法人東電電気実験所を設立(現在の公益法人東電記念財団、東電記念科学技術研究所)。川崎の実験工場で研究事業を開始した、 1939年(昭和14年)には国策会社日本発送電株式会社が設立、同年8月には「配電統制令」が発布され、東京電燈を始めとした電力会社は日本発送電と関連する関東配電株式会社など9配電会社に統合された。東京電燈自体は9配電会社設立に伴い、1942年(昭和17年)4月1日をもって関東配電へ吸収された。
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戦時体制
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京都駅まで電化開業したときには、すでに日中戦争が始まっていた。このころから、戦略物資を中心とした統制経済の拡大と奢侈の抑制が図られるようになっていたが、鉄道省もそれに呼応する形で、1938年11月1日から、省電区間、具体的には京浜線と京阪神緩行線での2等車の連結を廃止した。この時点ではクロハ59・69の両形式は3等代用として使用されていたが、1940年からクロハ59形の3扉化改造(クハ68形に編入)を実施することになった。 また、この時期の変わった話題としては、当時の阪和電鉄が車両不足を補うために鉄道省に電車の貸し出しを申請。東京鉄道局からモハ34-クハ38の2両編成を借りたのはいいが、阪和自慢のモヨ100・モタ300等に比べるとあまりにもお粗末な内装に、乗客だけでなく会社側からも不満の声が上がり、慌ててこの2両編成を吹田駅 - 神崎駅間の小運転に投入するとともに、阪和にはモハ43-クハ58(またはクロハ59)の2両編成を貸し出すこととなった。この貸し出しは阪和が南海に合併され、後に国有化されるまで続くこととなる。 その後、日本は太平洋戦争に突入、1942年11月14日には急電を廃止し、これらの車両も緩行用に投入した[要出典]。しかしながらモハ52は流線型で乗務員用のドアがなかったため、混雑の中で交替に手間がかかって乗務員に嫌われてしまい、編成の中間に付随車代用として組み込まれることとなる。また、このころ、輸送力増強として城東・西成線のモハ60、クハ55と本線のモハ51、クハ68をトレードして対応していたが、ついにはこのような小手先の対応ではどちらの需要もまかなうことができなくなってしまった。そこで、42系を4扉化して城東・西成線のモハ40系の台車と振り替えて城東・西成線に投入、代わりにモハ40系をモハ51として、ロングシートのまま京阪神緩行線に投入する、という計画が立てられた。 この改造は乏しい物資をやりくりしながら積極的に実施され、第1号のモハ43028-クハ55106が1943年に登場した。その後、多くのモハ43、クハ58が4扉化改造されることとなり、形式もモハ64、クハ85と改められた。そして、あのクハ58025も4扉化改造されてしまい、クハ85025を経て、最後はクハ79055となった。これらの改造と並行して、既存の車両の座席撤去、ロングシート化も推進され、1942年に横須賀線用の2等車として転出したクロハ69001, 002を除くクロハ69、クハ68の全車がクハ55に編入された[要出典]。 これらの非常措置と併せて、1943 - 1944年にはモハ60を増備、1944年1月には6両化を実施して輸送力の強化を図り、直後の1944年4月1日には明石電車区の南側にあった川崎航空機明石工場への通勤客の輸送手段を確保するため、明石電車区の構内に西明石駅を設置、定期券所持者のみの客扱いを開始した。この西明石駅延長で京阪神緩行線の基本運転区間が確定した[独自研究?]。
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戦時体制
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「湘南電気鉄道デ1形電車」の記事における「戦時体制」の解説
1941年に京浜電鉄・湘南電鉄・湘南半島自動車を併合し、新体制の拡大京浜電鉄が誕生し、同年内に子会社の京浜地下鉄道と東京地下鉄道・東京高速鉄道が合併し帝都高速度交通営団(現・東京地下鉄)が誕生。1942年に五島慶太率いる東京横浜電鉄が京浜電鉄・小田急電鉄(旧・帝都電鉄を含む)を併合し東京急行電鉄、いわゆる「大東急」が誕生。京浜電鉄は東急品川営業所所管となる。 合併に伴う形式番号の整理・変更により、形態・性能の近似する湘南デ1形・デ26形・京浜デ71形・デ83形はデハ5230形に統合された。これに対し京浜デ101形は600V区間専用車、3扉であるためデハ5170形デハ5171 - デハ5178とされた。 デハ5230形各車の新造時形式・記号番号との対応は以下の通り。 湘南電気鉄道デ1形デ1 - デ25 → デハ5231 - デハ5255 京浜電鉄デ71形デ71 - デ82 → デハ5256 - デハ5267 京浜電鉄デ83形デ83 - デ94 → デハ5268 - デハ5279 湘南電気鉄道デ26形デ26 -デ31 → デハ5280 - デハ5285 なお、1945年4月15日に空襲でデハ5170形8両全車とデハ5230形デハ5265・デハ5279・デハ5282の3両が焼失したが、1947年に)全車とも制御車クハ5350形クハ5351 - クハ5361として復旧した。
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