戦時体制
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戦時体制(せんじたいせい)とは、近現代の戦争において、国家が戦争遂行を最優先の目標として、その達成のために各種の政策を行うことをいう。対立概念は平時体制(へいじたいせい)。
概要

フランス革命戦争期のフランスでは、史上初の国民総動員体制をもって恐怖政治のもとに戦時下の非常処置がとられた[1]。戦時体制下においては、軍需物資の生産を極大化するために企業や国民が組織化されて動員が図られ、しばしばその目的の障害となる国民の私的領域である人権やプライバシーの抑圧が伴う。
「危機の時代」と呼ばれる1919年から1939年には、19世紀的な階級社会から、社会成員を均質化させてヒトやモノを効率良く動員する20世紀型システム社会への転換が起きた。思想の領域では、自由主義的な言論が封殺され、時局迎合的なナショナリズムの主張が発言力を増した一方で、社会論や文化論など多方面への萌芽が生じ、今日につながる問題に取り組んでいた[2]。
第二次世界大戦では、日本は1938年の国家総動員法制定、1940年の大政翼賛会および大日本産業報国会の結成により、世界経済から孤立していたソビエト連邦の戦時共産主義政策をモデルケースとする戦時体制の確立をした。しかし航空機の生産機数[注釈 1]や粗鋼生産量など各種の指標を見ても、日本はアメリカ合衆国[注釈 2]やソビエト連邦[注釈 3]はおろか、イギリス[注釈 4]やナチス政権下のドイツ[注釈 5]にも及ばず、経済政策としては成功したとはいえない。 ただし、もともとの生産目標値が平時比較で過大すぎた面もあること、また、世界恐慌の影響からいち早く回復した日本は、戦時体制移行直前期の時点で、相当高水準な生産量に達していたため、この時期との比較においては他国より低いが、経済統制の手法は戦後の経済政策にも生かされていく。
バブル崩壊後の構造改革ブームの時代には、戦後日本の企業構造や財政システムなどにおける日本特有の要素は戦時体制が源流であるとして、解体すべきという論調が強くなった[8]。しかし、構造改革後も日本経済は低迷を続けた。不況になると戦時体制のせいにするのは戦勝国であるアメリカやイギリスにも見られたことであり、発展段階説の変形という批判もある[9]。
脚注
注釈
- ^ 太平洋における戦争の決定的な段階で、日本の産業は、多数の航空機を生産し続けた。1941年には、あらゆる種類で合計5,088機(戦闘機1,080機、爆撃機1,461 機を含む)が生産された。1942年には、前年のほぼ2倍の8,861機(戦闘機2,935機、爆撃機2,433機を含む)が、また、1943年には16,693機(戦闘機7.147機、爆撃機4,189機を含む)が完成した。1944年には28,180機(戦闘機13,811機、爆撃機5,100機を含む)に達した。そして、1945年の終戦までの8か月間に、11,066機(戦闘機5,474機、爆撃機1,934機を含む)を完成させた。 エンジンやプロペラの生産も、急ピッチで進んだ。 1941年にエンジン12,151基、プロペラ 12,621基、1942年はエンジン16,999基、プロペラ22,362基、 1943年にエンジン28,541基,プロペラ31,703基、1944年にエンジン46,526基、プロペラ54,452基、1945年の8か月間には、エンジン12,360基、プロペラ19,922基をそれぞれ生産した。1941年と1945年の間に、航空産業の全労働力は、月平均で221,323名から戦争最後の月の825,581名まで4倍になった[3]。
- ^ ドイツの歴史家ゲオルグ・W・フォイヒターは、第二次世界大戦中のアメリカの航空機生産量として次のような数値を挙げている。1942年の航空機の総生産数は、47,836機(戦闘機10,769機、爆撃機12,627機、ただし、4発機2,615機、双発機7,247機)で、1943年には、85,898機(戦闘機23,988機、爆撃機29,355機、ただし、4発機9,615機、双発機10,361機)である。1944年には頂点に達し、総生産数96,318機(戦闘機38,873機、爆撃機35,003機、ただし、4発機16,331機、双発機10,058機)であった。1945年には47,714機(戦闘機21,696機、爆撃機 16,492機、ただし、4発機6,805機,双発機4,454機)が完成した。1941年から1945年までの軍用機の生産総数は、297,199機であった。そのうち、99,742機が戦闘機、97,592機が爆撃機で、爆撃機のうち、35,753機は4発機で、35,369機は双発機であった。エンジンの生産数は次の通りである。1941年に58,181基、1942年に138,089基、1943年に227,116基、1944年に256,911基、1945年には109,650基で、総計789,947基に達した。将兵の増加ぶりも、同様で、1941年12月8日の将兵の合計は約100,000名、1942年までには約1,000,000名、1943年には最大に達して、2,300,000名以上となった[4]。
- ^ ソ連が再び制空権を取り戻すには、ほぼ1年間が必要であった。工場を攻撃を受けにくい東部に移動する間、航空機の生産は低下し、連合軍の組織的な補給を受けた。そして、ソ連の航空産業は新しい装いをもって立ち直ったのである。1942年には約8,000機、1943年には約18,000機、1944年には約30,000機、1945年には約25,000機が生産された[5]。
- ^ 1938年に4,000機、1939年に7,000機、1940年に15,000機、1941年に20,100機、1942年に23,671機、1943年に26,263機、1944年には29,220機の航空機が生産された[6]。
- ^ ドイツにおける航空機生産は恐るべき速さで続き、1939年には8,300機、1940年には10,800機、1941年には11,800機、1942年には15,600機、1943年には25,500機、1944年には39,800機、また1945年初めの数か月で、8,000機を生産したのである[7]。
出典
- ^ 山上正太郎「革命戦争」日本大百科全書 (ニッポニカ)
- ^ 『概説日本思想史』 畑中健二
- ^ 『航空機 第二次大戦 Ⅱ』 1981, p. 119.
- ^ 『航空機 第二次大戦 Ⅱ』 1981, p. 13.
- ^ 『航空機 第二次大戦Ⅱ』 1981, p. 213.
- ^ 『航空機 第二次大戦Ⅰ』 1981, p. 10.
- ^ 『航空機 第二次大戦Ⅰ』 1981, p. 99.
- ^ 野口悠紀雄『1940年体制-さらば戦時経済』東洋経済新報社、1995年
- ^ 「新自由主義の生命力」が日本で根強すぎる理由 「右派」も「左派」もきちんと批判する論理がない | 令和の新教養 | 東洋経済オンライン
参考文献
- Angelucci, Enzo、Matricardi, Paolo 著、石川好美 訳『航空機 第二次大戦Ⅰ』木村秀政(日本語版監修)、小学館〈万有ガイド・シリーズ4〉、1981年9月。
- Angelucci, Enzo、Matricardi, Paolo 著、石川好美 訳『航空機 第二次大戦Ⅱ』木村秀政(日本語版監修)、小学館〈万有ガイド・シリーズ5〉、1981年8月。
関連項目
- 統制
- 配給 (物資) - 戦時農園
- 総動員 - 国家総力戦
- 戦時設計
- 戦時経済
- 民間防衛
- 年俸1ドル - アメリカ政府では無償のボランティアが認められなかったため、戦時中に政府や民間企業の幹部が政府の仕事をするため名目上1ドルで仕事をした。
- 戦争努力
- 銃後
- ぜいたくは敵だ - 七・七禁令
- 弾丸切手
- 新しい戦前
外部リンク
戦時体制
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「橘丸」は1938年(昭和13年)6月27日付で日本海軍に徴傭され、2日後の6月29日に呉鎮守府籍となる。呉海軍工廠において特設病院船としての改装工事を受けるが、その塗装は戦時国際法の規定とは異なり、明灰色に赤十字の標識を描いただけのものだった。改装後はただちに揚子江へ赴き、傷病兵の収容に従事する。しかし、7月29日に鄱陽湖にて中華民国軍機7機による空襲を受ける。爆弾自体は116ポンド(約50キロ)爆弾であったが、うち2発が「橘丸」への至近弾となり、左舷部の破口からの浸水を止めきれず浅瀬に座礁の後横転してしまった。「橘丸」は9月に入って浮揚し、江南造船所(英語版)で仮修理の後、三菱神戸造船所で本格的な修理に入った。その間の11月8日に日本海軍籍から除かれ、翌1939年(昭和14年)3月2日に解傭された。 修理後、解傭された「橘丸」は東京湾汽船に復帰するが、依然として伊豆方面の観光事情が芳しくなかったので日清汽船に傭船され、上海 - 南京 - 漢口方面にて運航された。しかし、12月7日に「葵丸」が伊豆大島乳が崎海岸で座礁沈没したため、大島航路に復帰する事となった。もっとも、復帰したとはいえ「大島ブーム」は沈静化しており、代わりに南房総への海水浴客輸送や鳥羽港まで「お伊勢参り」用のチャーター便としても活動した。太平洋戦争勃発後の1942年(昭和17年)5月に船舶運営会が組織され、「橘丸」も例外なく所属する事になったが、依然として大島航路に就航していた。 「橘丸事件」を参照 1943年(昭和18年)3月、「橘丸」は日本陸軍に徴傭される。約半年間輸送船として行動の後、昭南(シンガポール)停泊中の10月7日付で陸軍病院船として再徴傭され、10月9日には中立国経由で連合国側に通告された。陸軍病院船に転じた「橘丸」はニューギニア方面に進出するが、昭和19年3月14日に南緯02度14分 東経124度37分 / 南緯2.233度 東経124.617度 / -2.233; 124.617の地点を航行中にB-24の爆撃と機銃掃射を受ける。その後は、1945年(昭和20年)8月にいわゆる「橘丸事件」で拿捕されるまでフィリピン、ハルマヘラ島方面などで行動した。
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