ニューギニア方面
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/14 07:02 UTC 版)
1942年(昭和17年)12月31日、日本軍指導部(昭和天皇、大本営陸軍部/参謀本部、大本営海軍部/軍令部)はガダルカナル島(以下ガ島と省略)からの撤収と、ニューギニア島東北部に作戦重点を転換することを決定した。1943年(昭和18年)1月4日の大陸命第732号・同733号、大海令第23号により南太平洋方面作戦陸海軍中央協定がむすばれ、ここに日本陸軍と日本海軍はガ島撤退作戦とニューギニア作戦強化の方向で動き出した。 2月初旬、日本軍はケ号作戦を発動し、ガ島から撤収した。既述のように、大本営陸海軍部はガ島撤収前から作戦重点をニューギニア方面に指向していた。1943年3月に発令された第三段作戦帝国海軍方針と、同時期に日本陸軍との間に取り決められた陸海軍中央協定で、春以降の作戦方針としてニューギニア方面を重視していくことを確認した。ラバウルに司令部を置く第八方面軍(司令官今村均陸軍中将)はニューギニア方面作戦に懐疑的・消極的だったが、大本営陸軍部は方面軍の懸念を押し切る形でラエ、サラモア方面に対する攻勢を指導した。これにより南東方面の日本陸海軍(第八方面軍、南東方面艦隊〈第十一航空艦隊、第八艦隊〉)は、輸送船8隻・駆逐艦8隻による陸軍51師団のラバウル~ラエ・サラモア輸送作戦「第八十一号作戦」を策定した。対空直衛として、日本陸海軍航空隊約200機が集められた。 当時、南東方面の日本陸軍と日本海軍の間には問題があった。連合艦隊と第八方面軍の関係は険悪で、ラバウルの南東方面艦隊(司令長官草鹿任一中将)と第八方面軍の関係も険悪であった。現地を視察した軍令部作戦課長山本親雄大佐は「南東方面艦隊は第八方面軍司令部に対して全然信頼していない。あれではニューギニア作戦も覚束ないであろう。道路は何等着手していないし、ニューギニアに対する認識不足であり、中央も楽観しすぎている」と報告した。2月20日、第八方面軍の今村司令官はトラック泊地の戦艦大和に連合艦隊司令長官山本五十六大将を訪ね、南東方面における陸海軍協同作戦について懇談している。日本陸海軍の戦闘機が護衛するとはいえ、第八方面軍は不安を抱えたまま「全般的作戦の要請上断固として」やむをえず第八十一号作戦を決行した。3月3日、日本軍輸送船団はダンピール海峡で連合軍の大規模空襲を受け、輸送船8隻と駆逐艦4隻沈没という大損害を受けて作戦中止に至った(ビスマルク海海戦)。 ビスマルク海海戦の結果は、昭和天皇を含め日本陸海軍各部に多大なる衝撃をもたらした。大本営陸海軍部は直ちに対応を協議したが、あくまでニューギニア方面重視の方針は堅持することになった。敵制空権下での輸送は困難を極め、重要問題となる。大本営の合同研究には「五 第一段作戦の結論(1)前述の敵情判断による敵航空の優勢と地上三師団の攻勢に対して、マダン〜ラエ道の完成する八月頃迄わが軍は何んとかしてラエ、サラモアを確保しなければならないが、これは一に補給の確保にある。/(2)航空作戦はこの際防勢では駄目、こちらはラビ〜ブナ間の敵輸送路を攻撃する。これを叩けば敵の突進力はなくなる。」との項目がある。軍令部作戦課長山本親雄大佐によれば「い号作戦について軍令部から指示した記憶はない。八十一号作戦ラエ輸送の全滅は「い」号作戦決行の一つの動機になったと思う」という。 3月22日、日本陸海軍は「南東方面作戦陸海軍中央協定」を結び、陸軍は同日付で大陸指第1465号を、海軍は25日に第三段作戦方針指示と大海指第213号をもってニューギニア方面・ソロモン諸島方面に対する新規作戦方針を示した。その中には、航空機に関して「南東方面艦隊司令長官ノ指揮スル大約左ノ兵力(中略)状況ニ依リ母艦飛行機ヲ転用増強スルコトアリ」の項がある。この新陸海軍中央協定では「陸海軍真ニ一体トナリ両軍ノ主作戦ヲ先ツ「ニューギニヤ」方面ニ指導シ該方面ニ於ケル作戦根拠ヲ確立ス 此ノ間「ソロモン」群島及「ビスマルク」諸島方面ニ於テハ防御ヲ強化シテ現占領要域ヲ確保シ来攻スル敵ヲ随時撃破ス」と謳い、陸海軍航空兵力の統一指揮についても言及および研究がおこなわれていたが、実現しなかった。 3月下旬、大本営陸海軍部は第八方面軍参謀長加藤鑰平陸軍中将、連合艦隊参謀長宇垣纏海軍中将、南東方面艦隊参謀長中原義正海軍少将等を東京に招致し、現地の意見を聞くとともに中央の作戦方針を示した。3月26日には、昭和天皇が大本営会議に臨御している。
※この「ニューギニア方面」の解説は、「い号作戦」の解説の一部です。
「ニューギニア方面」を含む「い号作戦」の記事については、「い号作戦」の概要を参照ください。
- ニューギニア方面のページへのリンク