八十一号作戦
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十八号作戦の次に行われた輸送作戦を八十一号作戦という。八十一号作戦は、日本陸軍第十八軍(司令官安達二十三陸軍中将)麾下の第二十師団、第四十一師団、第五十一師団をもって東部ニューギニア要所(ラエ、サラモア、マダン、ウェワク)を増強する作戦である。作戦を立案した第八方面軍参謀杉田一次陸軍大佐によれば「八は縁起がよいというので、八十一号作戦と名付けた」と回想している。第八方面軍参謀長吉原矩陸軍中将は「マダンに上陸するのでは、ダンピールを棄てることになるので、一か八かラエ強行上陸に決定した」と回想している。 八十一号作戦は三段階の作戦で構成されていた。陸軍第41師団をニューギニア中部北岸ウェワクへ輸送する「丙号輸送」(海軍側呼称は「丙三号作戦」)(2月下旬)。陸軍第51師団をラエに輸送船団をもって輸送する『八十一号作戦ラエ輸送』(本項目)。陸軍第20師団(師団長青木重誠陸軍中将)をニューギニア島北岸マダンへ輸送する作戦である。 ケ号作戦(ガダルカナル島撤収作戦)完了後の2月8日、連合艦隊は電令作第477号により「(一~三、略)四 南東方面部隊ハ「カ」号作戦ヲ続行スルト共ニ陸軍ニ協力 速カニ東部「ニューギニヤ」ノ戦略態勢ヲ強化スベシ」と命じた。翌9日、第八方面軍と南東方面艦隊はニューギニア方面作戦について研究を開始した。2月13日、第八方面軍と南東方面部隊間に八十一号作戦に関する現地協定が結ばれる。「八十一号作戦」の呼称名は、この現地協定で決定したとされる。同時に、航空作戦に関しても現地協定がむすばれた。2月20日、第八方面軍司令官今村均陸軍中将はトラック泊地の戦艦大和に連合艦隊司令長官山本五十六海軍大将を訪ね、南東方面における陸海軍作戦計画について協議した。第八方面軍の報告をうけた大本営陸軍部は、大本営海軍部に改めてニューギニア方面への作戦協力をもとめた。要求には「 「ラエ」「サラモア」地区ノ得失ハ「ニューギニヤ」作戦遂行ノ能否ヲ左右スヘク陸海軍有スル手段ヲ尽シテ之ヲ確保スヘキ情況判断ニ立脚シ、差当リ三月三日「ラエ」上陸ニ先チ(二月下旬)一部兵力資材ノ駆逐艦輸送ヲ敢行スル如ク、両統帥部ハ現地艦隊、軍ヲ指導ス」という項目も含まれていた。 2月21日、第八艦隊司令部に第八方面軍・第十八軍・船舶部隊・第八艦隊・南東方面艦隊各指揮官や参謀が集まり、作戦会議が開かれた。現地上級部隊(第八方面軍、南東方面部隊)の協定に基づき、実施部隊(日本陸軍〈第18軍司令官安達二十三陸軍中将、第51師団長中野英光陸軍中将、第6飛行団長板花義一陸軍中将〉、日本海軍〈第八艦隊司令長官三川軍一海軍中将、第二十一航空戦隊司令官市丸利之助海軍少将、第三水雷戦隊司令官木村昌福海軍少将〉)間で「八十一号作戦ラエ輸送」について現地協定が結ばれる。22日、方面軍命令により第十八軍司令官は猛作命甲第157号を発令し、ラエ輸送を発令した。24日、第五十一師団長は五一師作命甲第59号を発令し、ラエ上陸作戦について下達した。 八十一号作戦の最大の課題は、船団の航空護衛であった。当時の南東方面においては、ニューギニア方面の補給輸送の掩護は日本陸軍が、南東方面全域での洋上作戦とソロモン諸島方面航空作戦は日本海軍の分担であった(1月3日、中央陸海軍協定による)。第八方面軍と協議した田辺盛武参謀次長は2月上旬の報告の中で「輸送掩護ノ為ノ航空兵力ハ極メテ貧弱ニシテ此ノ上トモ兵員、船団ノ損耗ヲ小ナラシムル為作戦ノ指導ニ関シ苦慮セラレアリ 殊ニ51D主力ノ直接「ラエ」上陸ハ海軍ノ最モ強力ナル支援ヲ得サル限リ損害ハ少クトモ 二分ノ一 ニ上ルモノト推算セラレアリ」と懸念している。日本陸軍の航空戦力では輸送船団の安全な航海は不可能であった。そこで作戦協定により、日本陸軍(司偵5、戦闘機60、軽爆45)と日本海軍(戦闘機60、陸攻20、艦攻8〈瑞鳳〉、艦爆10〈五八二海軍航空隊〉、水偵10〈九五八海軍航空隊〉)という航空戦力を投入する。だが「陸軍戦闘機60」は希望的数字であった。九九式双発軽爆撃機を主力とする第六飛行師団(師団長板花義一陸軍中将)は、一〇〇式司令部偵察機による偵察を実施、つづいてワウとブナ方面の攻撃を行う。2月中旬時点での実動戦力は九九双軽16機であった。 日本海軍側は、一式陸上攻撃機が連合軍各飛行場に対して、航空撃滅戦を実施した。だが日本海軍が同方面の航空兵力を半分集結させても、戦闘機約60、艦爆10、陸攻20、水上機10程度だったという。ブナ(20日に7機、21日に3機)、ポートモレスビー(21日に4機)、ラビ(22日に7機、27日に2機)に対し、それぞれ夜間爆撃をおこなう。また輸送船団8隻を護衛するには戦闘機約200が必要とされたが、同方面の日本陸軍戦闘機(一式戦闘機)は2月末時点で約50機しかなく、陸軍側は連合艦隊に零式艦上戦闘機の派遣を依頼する。トラック在泊の第一航空戦隊(瑞鶴、瑞鳳)よりカビエンに進出していた瑞鳳飛行機隊が、今度はウェワクに進出して作戦に協力することになった。連合艦隊は、第八十一号作戦に協力するのは瑞鳳飛行機隊だけで十分だと判断している。航空撃滅戦の効果は疑わしかったが、2月初旬のガダルカナル島撤退作戦から「航空撃滅戦の成果があがらない場合でも、輸送掩護に力を注げば、輸送作戦成功の見込みは十分ある」との戦訓が得られており、第八十一号作戦ラエ輸送は実施することになった。 詳細は「ラエ・サラモアの戦い#ワウの戦い」を参照 現地では1月27日に岡部支隊がワウに侵攻していたが連合軍の増援部隊に撃退され、2月中旬までに撤退していた。丙三号輸送部隊(ウェワク輸送)に関しては、2月20日から26日にかけて第四十一師団(師団長阿部平輔陸軍中将)約1万3600名の陸兵と輸送物件の揚陸に成功した。丙三号輸送作戦は第九戦隊司令官岸福治少将が指揮する軽巡洋艦2隻(大井、北上)、駆逐艦複数隻、輸送船11隻でおこなわれ、第一航空戦隊飛行機隊がウェワク飛行場に進出して上空援護をおこなった。上陸部隊は、先にウェワクに上陸していた第二十師団や第二特別根拠地隊(海軍)と共に、飛行場の構築・拡張任務を開始した。また潜水艦によるラエ輸送も、2月10日から23日にかけて複数回実施された。潜水艦に搭載できる物資や人員数は限られており、最小限の輸送であった。 本作戦当時、南東方面の日本海軍を指揮していたのは南東方面艦隊(第十一航空艦隊)司令長官草鹿任一中将であった。南東方面艦隊(前年12月24日、新編)司令長官草鹿任一中将は、基地航空部隊(第十一航空艦隊基幹)と外南洋部隊(第八艦隊および連合艦隊他からの増援部隊)から成る南東方面部隊の指揮官であり、南東方面の日本海軍最高責任者であった。当時の南東方面には外南洋部隊指揮官三川軍一中将(第八艦隊司令長官)の指揮の下、木村昌福第三水雷戦隊司令官(外南洋部隊増援部隊指揮官)の外南洋部隊増援部隊が展開していた。 第三水雷戦隊司令官木村昌福少将を護衛部隊指揮官とする駆逐艦8隻(第11駆逐隊〈白雪〉、第19駆逐隊〈浦波、敷波〉、第8駆逐隊〈朝潮、荒潮〉、第9駆逐隊〈朝雲〉、第16駆逐隊〈時津風、雪風〉)、輸送船8隻(陸軍輸送船大井川丸(英語版)、太明丸(英語版)、建武丸(英語版)、帝洋丸(英語版)、愛洋丸(英語版)、神愛丸(英語版)、旭盛丸(英語版)、海軍運送艦野島)の船団が編成された。輸送人員は、猛作命甲第157号乗船区分表によれば5,916名、南東太平洋方面関係電報綴によれば6,912名、井本方面軍参謀業務日誌によれば約7,500であった。軍需品は約9,300立米、不沈ドラム缶1500本、大発動艇約40隻を搭載した。航空燃料は建武丸に搭載し、他の輸送船の安全を確保した。 同船団上空警戒は、海軍側は第二十一航空戦隊(司令官市丸利之助少将)が戦闘機隊全部を掌握して実施した。ニューブリテン島ラバウルとニューアイルランド島カビエンの第204空や第253空および空母瑞鳳航空隊の零戦合計60機以上、陸軍側は第6飛行団長板花義一陸軍中将指揮下の陸軍戦闘機60機以上が担当する。船団の直掩の戦闘機隊は、時間帯によって陸軍と海軍が交互に交代する予定であった。 作戦実施にあたり、木村昌福少将(三水戦司令官。2月14日発令)は本来の第三水雷戦隊旗艦(軽巡洋艦川内)から白雪型駆逐艦白雪(第11駆逐隊)に座乗した。各駆逐艦にも陸軍兵と補給物資搭載の指示がなされ、小発動艇や折畳み式舟艇も積み込んだ。作戦に参加した駆逐艦の対空装備はすべて機銃程度で、対空砲火の不備は作戦失敗後の戦訓でも失敗の一因と指摘されている。輸送船8隻の対空装備も駆逐艦と大同小異で、こちらも十分とはいえなかった。 日本軍の作戦では、2月28日(3月1日午前0時0分)にラバウルを出航し3月3日夕刻にラエに到着・揚陸予定であった。日本陸軍船舶部隊がラエに先行し、事前に揚陸準備をおこなう。同時に敵航空戦力を空爆により弱体化させる計画であり、夜間爆撃がラビ及びポートモレスビーに対して行われたが、前述のように航空戦力の過少と天候不良により不十分であった。またラバウルに本拠地を置く日本軍基地航空隊(第十一航空艦隊、司令長官草鹿任一中将〔南東方面艦隊司令長官兼務〕)は、3月3日当日に重巡青葉と雷撃訓練を行うような状態だった。 大本営陸軍部はニューギニア方面作戦およびラエ・サラモア地区の得失を非常に重要視しており、「陸海軍あらゆる手段を尽して之を確保すべき」と決意していた。護衛部隊の第三水雷戦隊参謀であった半田仁貴知少佐は、八十一号作戦計画担当であった第八艦隊作戦参謀神重徳大佐(海軍兵学校48期)に「この作戦は敵航空戦力によって全滅されるであろうから、中止してはどうか」と申し入れたが、神大佐から「命令だから全滅覚悟でやってもらいたい」と回答されたという。その作戦を立案した第八方面軍や南東方面艦隊(第十一航空艦隊、第八艦隊)の当事者は、成功率は四分六分、あるいは五分五分程度とみていた。とくに第八艦隊(長官三川軍一中将、参謀長大西新蔵少将、参謀神重徳大佐)では「直衛機を信頼して無理な輸送作戦を計画するのは根本的に誤りである」と判断していた。軍令部は「輸送船の半分に損害はあるかもしれぬ」と判断している。八十一号作戦を立案した第八方面軍は、ラエ輸送の成功率は40パーセントから50パーセントとみていた。だがマダン揚陸ではラエまでの移動に時間がかかり、またラエ・サラモア地区の陸軍を早急に支援しなくてはならないため、冒険的作戦ながら実施することになった。 このように、本作戦はラエ輸送作戦を主張する日本陸軍と、マダンもしくはウェワク輸送を主張した日本海軍(連合艦隊)の、妥協の産物であった。出撃の前、陸海軍の指揮官や幕僚はラバウルで祝宴を開いて壮途を祝した。野島艦長の松本亀太郎大佐は第8駆逐隊司令の佐藤康夫大佐に「生還は望めない作戦なので骨だけは拾ってほしい」と頼むと、佐藤大佐は「自分の座乗する『朝潮』が護衛する限り大丈夫だ。『野島』の乗組員は必ず生きて連れて帰る」と返した。 @media all and 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