第二次国共内戦
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日本降伏後は東北地方に派遣され、1946年1月に北満軍区参謀長となり、同年4月のハルビン占領を指揮。松江軍区司令員兼ハルビン市代理衛戍司令員として1946年冬の三下江南作戦、1947年5月には東北民主連軍第1縦隊司令員となって第3次四平戦役や1947年夏・秋・冬季攻勢に参加。1948年1月、東北野戦軍第1縦隊司令員に任じられ、同年3月の第4時四平戦役や遼瀋戦役に参加した。1948年11月、東北野戦軍第1縦隊が東北野戦軍第38軍に改編されたことに伴い、李天佑は後に人民解放軍きっての精鋭部隊として知られることになる38軍の初代軍長となった。初代政治委員は梁必業である。38軍は北京・天津の解放を狙った平津戦役に参加し、1949年1月14日に天津へ入城、天津警備司令官陳長捷らの国民党軍幹部を捕虜とした。李天佑は1949年5月、第4野戦軍第13兵団第一副司令員に転じた。
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第二次国共内戦
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1945年5月、中国国民党は第6回全国代表大会を開催し、孫文が提唱した革命の第3段階である「憲政」に入ることを示した。そして、「憲政」が国民党主導の国民大会によって実施されるという構想を明らかにした。一方、毛沢東は同時期に開催されていた中国共産党第7回党大会で『連合政府論』を提唱し、国民党案に不同意を表明した。日中戦争当時、共産党と国民党は表面上協調関係を結び、毛沢東も蔣介石の権威に従っていたが、戦争終結を目前にして、毛沢東は「蔣介石と対等な指導者」としての立場をめざし、共産党と国民党の対立は深刻化していった。また、毛は第7回党大会で「たとえ、我々がすべての根拠地を喪失したとしても、東北(満洲)さえあれば、それをもって中国革命の基礎を築くことができるのだ」と述べた。終戦直前の8月13日に毛沢東は蔣介石との武力闘争を内部指示として発した。 1945年8月14日、日本はポツダム宣言受諾を連合国側に通告し、8月15日に終戦を迎えた(日本の降伏)。8月30日、蔣介石と毛沢東は重慶で会談し、国共和平・統一について議論を重ねた。議論は長引き、10月10日に「双十協定」としてまとめられた。「双十協定」では、国民党が「政治の民主化」「各党派間の平等性や合法性」などを約し、共産党も「蔣介石の指導」「国民党の指導下での統一国家の建設」を承認するなど、内戦回避と統一政権樹立について両党が努力することが確認された。さらに国民党の張群、共産党の周恩来、アメリカのジョージ・マーシャル将軍は三者会談を行い、停戦協定を発表して軍事調処執行部(中国語版)(三人委員会)も成立した。 しかし、「双十協定」が調印されたその日に山西省南部で上党戦役が勃発し、共産党軍と国民党軍が交戦して共産党軍が国民党軍に大きな打撃を加えた。また、この年末には、降伏した日本軍の接収・管理のために国民党軍が東北地方に派遣されると、共産党も林彪率いる東北民主連合軍を派遣し、緊張関係が生じた。 1946年1月、「双十協定」に基づき、政治協商会議(党派間の協議機関)が重慶で開催された。各党派の代表構成は国民党が8、共産党が7、その他の政党・無党派が23であった。この会議では憲法改正案・政府組織案・国民大会案・平和建国綱領などが採択され、国民政府委員会(政府最高機関)の委員の半数が国民党以外に割り当てられるなど、国民党は共産党を初めとする諸党派に対して一定の譲歩を示した。しかし、3月の党大会において、国民党は共産党が提唱する「民主連合政府」の拒否と国民党の指導権の強化を決議した。6月26日、蔣介石は国民革命軍(中華民国の正規軍。実質的には国民党軍)に対して共産党支配地区への全面侵攻を命令、国共内戦が始まった。中国共産党はこれに対して6月22日に「アメリカの蔣介石に対する軍事援助に反対する声明」を提出し、アメリカの援助はいまや明らかに中国内政への武装干渉であり、中国を引き続き内戦・分裂・混乱・恐怖・貧困に陥れていると指摘し、アメリカに対して「一切の軍事援助の即時停止、中国におけるアメリカ軍の即時撤退」を要求した。マーシャル将軍は、中国への武器弾薬の輸出禁止措置をとった。8月10日にはトルーマンが蔣介石にその行動を非難し、同年12月18日にトルーマンは「対中政策」を発表し、アメリカは「中国の内戦に巻き込まれることを避けつつ、中国国民が中国に平和と経済復興をもたらすのを援助する」だけであるとしてマーシャル将軍の召喚と中国内戦からのアメリカの撤退を表明する。 国共内戦が起きると、毛沢東は地主の土地を没収し農民に分配する「土地革命」を再開し、農民の支持を獲得していった。 国共内戦では「全面侵攻」を進める蔣介石に対して毛沢東はゲリラ戦を展開した。1947年3月28日に毛は党中央の所在地である延安の放棄を決定、国民党軍を山岳地帯に誘い込み、国民党の戦力消耗を図った。内戦当初優勢だった国民党軍はこの頃より勢いに陰りを見せ始めた。毛沢東率いる中国人民解放軍(1947年9月、八路軍から改称)はソビエト連邦からの軍事援助を受けつつ、アメリカ政府内の共産主義シンパの抵抗によって軍事支援を削減された国民党軍に対して大規模な反撃に出た。1948年9月から1949年1月にかけて展開された「三大戦役」 において人民解放軍は勝利を重ね、国民党軍に大打撃を与えた。1949年1月、人民解放軍は北平(北京)に入城し、4月23日には国民政府の根拠地・首都南京を制圧した。 1949年3月の第7期2中全会において、新政治協商会議の開催と民主連合政府の樹立を各界によびかけた。かくして、9月21日から9月30日にかけて北京に全国の著名な有識者や諸党派の代表が集まり、中国人民政治協商会議が開催された。この会議では新国家の臨時憲法となる「中国人民政治協商会議共同綱領」が採択され、新国家の国号を「中華人民共和国」とし、毛沢東が中央人民政府主席に就任することが決議された。また、北平を北京に再び改称し、国民政府の象徴である南京から遷都することも決定した。
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