第二次国共内戦とは? わかりやすく解説

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第二次国共内戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 14:40 UTC 版)

李天佑」の記事における「第二次国共内戦」の解説

日本降伏後は東北地方派遣され1946年1月北満軍区参謀長となり、同年4月ハルビン占領指揮松江軍区司令員兼ハルビン市代理衛戍司令員として1946年冬の三下江南作戦1947年5月には東北民主連軍第1縦隊司令となって第3次四平戦役1947年夏・秋冬季攻勢参加1948年1月東北野戦軍第1縦隊司令員に任じられ同年3月の第4時四平戦役遼瀋戦役参加した1948年11月東北野戦軍第1縦隊東北野戦軍38軍に改編されたことに伴い李天佑は後に人民解放軍きっての精鋭部隊として知られることになる38軍の初代軍長となった初代政治委員必業である。38軍は北京天津解放狙った平津戦役参加し1949年1月14日天津入城天津警備司令官陳長捷らの国民党軍幹部捕虜とした。李天佑1949年5月第4野戦軍13兵団第一副司令員に転じた

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第二次国共内戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 00:35 UTC 版)

毛沢東」の記事における「第二次国共内戦」の解説

1945年5月中国国民党第6回全国代表大会開催し孫文提唱した革命第3段階である「憲政」に入ることを示した。そして、「憲政」が国民党主導国民大会によって実施されるという構想明らかにした。一方毛沢東同時期に開催されていた中国共産党第7回党大会で『連合政府論』を提唱し国民党案に不同意表明した日中戦争当時共産党国民党表面協調関係を結び、毛沢東蔣介石権威に従っていたが、戦争終結目前にして、毛沢東は「蔣介石対等な指導者としての立場をめざし、共産党国民党対立深刻化していった。また、毛は第7回党大会で「たとえ、我々がすべての根拠地喪失したとしても、東北満洲)さえあれば、それをもって中国革命基礎を築くことができるのだ」と述べた終戦直前8月13日毛沢東蔣介石との武力闘争内部指示として発した1945年8月14日日本ポツダム宣言受諾連合国側通告し8月15日終戦迎えた日本の降伏)。8月30日蔣介石毛沢東重慶会談し、国共和平・統一について議論重ねた議論長引き10月10日に「双十協定」としてまとめられた。「双十協定」では、国民党が「政治民主化」「各党派間の平等性合法性」などを約し共産党も「蔣介石指導」「国民党指導下での統一国家建設」を承認するなど、内戦回避統一政権樹立について両党が努力することが確認された。さらに国民党張群共産党周恩来アメリカジョージ・マーシャル将軍三者会談行い停戦協定発表して軍事調処執行部中国語版)(三人委員会)も成立した。 しかし、「双十協定」が調印されその日山西省南部上党戦役勃発し共産党軍国民党軍交戦して共産党軍国民党軍大きな打撃加えたまた、この年末には、降伏した日本軍の接収管理のために国民党軍東北地方派遣されると、共産党林彪率い東北民主連合軍を派遣し緊張関係が生じた1946年1月、「双十協定に基づき政治協商会議党派間の協議機関)が重慶開催された。各党派の代表構成国民党が8、共産党が7、その他の政党無党派23であった。この会議では憲法改正案政府組織案・国民大会案・平和建国綱領などが採択され国民政府委員会政府最高機関)の委員半数国民党以外に割り当てられるなど、国民党共産党初めとする諸党派に対して一定の譲歩示した。しかし、3月党大会において、国民党共産党提唱する民主連合政府」の拒否国民党指導強化決議した6月26日蔣介石国民革命軍中華民国正規軍実質的に国民党軍に対して共産党支配地区への全面侵攻命令国共内戦始まった中国共産党はこれに対して6月22日に「アメリカ蔣介石対す軍事援助反対する声明」を提出しアメリカの援助はいまや明らかに中国内政への武装干渉であり、中国引き続き内戦分裂混乱恐怖貧困に陥れていると指摘しアメリカに対して一切軍事援助即時停止中国におけるアメリカ軍即時撤退」を要求したマーシャル将軍は、中国への武器弾薬輸出禁止措置をとった。8月10日にはトルーマン蔣介石にその行動非難し同年12月18日トルーマンは「対中政策」を発表しアメリカは「中国内戦巻き込まれることを避けつつ、中国国民中国に平和と経済復興もたらすのを援助する」だけであるとしてマーシャル将軍召喚中国内戦からのアメリカ撤退表明する国共内戦起きると、毛沢東地主土地没収し農民分配する土地革命」を再開し農民支持獲得していった。 国共内戦では「全面侵攻」を進め蔣介石に対して毛沢東ゲリラ戦展開した1947年3月28日に毛は党中央所在地である延安放棄決定国民党軍山岳地帯誘い込み国民党戦力消耗図った内戦当初優勢だった国民党軍この頃より勢い陰り見せ始めた毛沢東率い中国人民解放軍1947年9月八路軍から改称)はソビエト連邦からの軍事援助を受けつつ、アメリカ政府内の共産主義シンパ抵抗によって軍事支援削減され国民党軍に対して大規模な反撃出た1948年9月から1949年1月にかけて展開された「三大戦役」 において人民解放軍勝利を重ね国民党軍大打撃与えた1949年1月人民解放軍北平北京)に入城し4月23日には国民政府根拠地首都南京制圧した1949年3月第7期2中全会において、新政協商会議開催民主連合政府樹立各界よびかけた。かくして9月21日から9月30日にかけて北京全国著名な有識者や諸党派の代表が集まり中国人民政治協商会議開催された。この会議では新国家臨時憲法となる「中国人民政治協商会議共同綱領」が採択され新国家国号を「中華人民共和国」とし、毛沢東中央人民政府主席就任することが決議された。また、北平北京に再び改称し国民政府象徴である南京から遷都することも決定した

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