日本軍の接収
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1938年10月の漢口陥落後、空軍は漢口飛行場を放棄、総站人員は新設された湖南省の懐化芷江飛行場(中国語版)へと逃れ、第9総站に改編される。 残された飛行場施設の修繕は島田航空兵大尉を長とし第2飛行場中隊などからなる第一漢口飛行場隊が実施し、月末には概了。11月2日には陸軍航空兵団司令部が進出。しかし、武漢作戦の終結後、日本海軍は中国戦線に派遣中の海軍航空隊の撤収を進め、1939年(昭和14年)初頭には派遣部隊の規模はピーク時の4割にあたる132機に減少していた。漢口などの華中方面には、第二連合航空隊(第十二航空隊44機・第十三航空隊18機、司令官:桑原虎雄少将)と第一根拠地隊江上飛行機隊(8機)が残る程度になっていた。 しかし、同年5月から重慶爆撃を本格的に開始することになると、4月24日に第十四航空隊が漢口に進出したのを皮切りに、6月には高雄海軍航空隊、9月5日には第一連合航空隊(木更津海軍航空隊・鹿屋海軍航空隊、司令官:塚原二四三少将)と、九六式陸上攻撃機を主力とする航空部隊を続々と漢口に進出させた。日本陸軍も、1939年9月下旬に飛行第60戦隊(戦隊長:田中友道大佐)を漢口に進出させて、海軍部隊との共同訓練を開始した。それに伴い近隣の漢口競馬場を整地して大飛行場が整備され、一連空・二連空・陸軍機合わせて200機が展開可能な態勢となった。秘匿名称は「W基地」と呼称された。1940年5月以降、重慶爆撃のため全陸攻隊に漢口集結が下令され、連日実施された重慶・成都爆撃の拠点となる。 1943年2月末、飛行第90戦隊ピスト新設、それに伴い第15航空通信隊第2中隊により通信用地下ケーブルが3月中に架設される。 終戦までに展開した部隊は以下の通り。 海軍部隊 第十二航空隊 第十三航空隊 第十四航空隊 - 1939年4月24日~6月15日、1940年5月~9月 高雄海軍航空隊 - 1939年6月1日~1940年1月1日 陸軍部隊 飛行第60戦隊 - 1939年9月下旬~ 飛行第85戦隊 飛行第25戦隊 飛行第48戦隊 飛行第90戦隊 第16航空地区司令部 第15航空通信隊第1中隊第1~第5分隊 第2中隊 第19飛行場中隊 第67飛行場中隊 第31飛行場大隊警備中隊
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