日本軍の接収とは? わかりやすく解説

日本軍の接収

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/29 14:48 UTC 版)

武漢王家墩飛行場」の記事における「日本軍の接収」の解説

1938年10月漢口陥落後、空軍漢口飛行場放棄、総站人員新設され湖南省懐化芷江飛行場中国語版)へと逃れ、第9総站に改編される。 残され飛行場施設修繕島田航空兵大尉を長とし第2飛行場中隊などからなる第一漢口飛行場隊が実施し月末には概了。11月2日には陸軍航空兵団司令部進出。しかし、武漢作戦終結後日本海軍中国戦線派遣中の海軍航空隊撤収進め1939年昭和14年初頭には派遣部隊規模ピーク時の4割にあたる132機に減少していた。漢口などの華中方面には、第二連合航空隊第十二航空隊44機・第十三航空隊18機、司令官桑原虎雄少将)と第一根拠地隊江上飛行機隊(8機)が残る程度になっていた。 しかし、同年5月から重慶爆撃本格的に開始することになると、4月24日第十航空隊漢口進出したのを皮切りに6月には高雄海軍航空隊9月5日には第一連合航空隊木更津海軍航空隊鹿屋海軍航空隊司令官塚原二四三少将)と、九六式陸上攻撃機主力とする航空部隊続々漢口進出させた。日本陸軍も、1939年9月下旬飛行60戦隊戦隊長田中友道大佐)を漢口進出させて、海軍部隊との共同訓練開始したそれに伴い近隣漢口競馬場整地して大飛行場整備され一連空・二連空・陸軍機合わせて200機が展開可能な態勢となった秘匿名称は「W基地」と呼称された。1940年5月以降重慶爆撃のため全陸攻隊に漢口集結下令され、連日実施され重慶成都爆撃拠点となる。 1943年2月末、飛行90戦隊ピスト新設それに伴い15航空通信隊第2中隊により通信用地下ケーブル3月中に架設される。 終戦までに展開した部隊以下の通り海軍部隊 第十二航空隊 第十三航空隊 第十航空隊 - 1939年4月24日6月15日1940年5月9月 高雄海軍航空隊 - 1939年6月1日1940年1月1日 陸軍部隊 飛行60戦隊 - 1939年9月下旬飛行85戦隊 飛行25戦隊 飛行48戦隊 飛行90戦隊16航空地区司令部15航空通信隊第1中隊第1~第5分隊 第2中隊19飛行場中隊67飛行場中隊31飛行場大隊警備中隊

※この「日本軍の接収」の解説は、「武漢王家墩飛行場」の解説の一部です。
「日本軍の接収」を含む「武漢王家墩飛行場」の記事については、「武漢王家墩飛行場」の概要を参照ください。

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