日本軍の捕虜後送計画と実態
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/03 16:36 UTC 版)
「バターン死の行進」の記事における「日本軍の捕虜後送計画と実態」の解説
日本軍の捕虜後送計画は、総攻撃の10日前に提出された ものであり、捕虜の状態や人数が想定と大きく異なっていた。捕虜は一日分の食料を携行しており、経由地のバランガまでは一日の行程で食料の支給は必要ないはずであった。実際には最長で三日かかっている。バランガからサンフェルナンドの鉄道駅(サンフェルナンド駅)までの区間では200台のトラックしか使用できなかったが、全捕虜がトラックで輸送されるはずであった。しかし、トラックの大部分が修理中であり、米軍から鹵獲したトラックも、継戦中のコレヒドール要塞攻略のための物資輸送に充てねばならなかった。結局、マリベレスからサンフェルナンドの区間83kmを、将軍も含めた捕虜の半数以上が徒歩で3日間行進することになった。この区間の行軍が「死の行進」と呼ばれた。 米兵達は降伏した時点で既に激しく疲弊していた。日本軍に降伏したとき、バターン半島のアメリカ兵の五〇パーセントは戦傷やマラリアのために医師の手当てを要する体調だった。したがって、短距離を歩くことさえ不可能ではないとしても極めて困難だったが戦火に追われて逃げ回り、極度に衰弱した難民達も行進に加えられた。日米ともにコレヒドールではマラリアやその他にもデング熱や赤痢が蔓延しており、また食料調達の事情などから日本軍の河根良賢少将はタルラック州カパスのオドンネル基地に収容所を建設した。米比軍のバターン半島守備隊の食料は降伏時には尽きており、味噌汁、ゴボウなどアメリカ人、フィリピン人と日本人との食生活の違いも指摘されている。さらに炎天下で行進が行われたために、重さ30kgの重武装の日本兵も監視のために一緒に行軍したが、約42kmの道のりで多くの捕虜が倒れた。このときの死亡者の多くはマラリア感染者とも言われる。 当初の捕虜輸送案区間距離備考1.マリベレス~バランガ 約30km 2.バランガ~サンフェルナンド 約53km トラック200台での輸送(一部のみ) 3.サンフェルナンド~カパス 約48km 鉄道での輸送 4.カパス~オドネル 約12km この表のように、捕虜が歩くのは1と4の区間だけであり、バランガとサンフェルナンドには野戦病院を設置し、その他数キロごとに、救護所や休憩所を設置して傷病兵を手当てする計画であったが、上記のように、当初日本軍が想定していた事態を大きく上回った。その後、日本軍の管理するオードネル捕虜収容所に収容された捕虜が数か月の間に、劣悪な環境により食糧・医薬品の不足や水の不足により、最終的にここでも万単位の死者(アメリカ兵は1000人単位の死者)が出たため、連合国側は死の行進と含めて戦後、戦犯裁判の対象とした。
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