ぎょう‐てい〔ギヤウ‐〕【行程】
こう‐てい〔カウ‐〕【行程】
行程
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/23 19:15 UTC 版)
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関連項目
- 平均自由行程
- 工程
- スケジュール
- ストローク (エンジン) - 訳語のひとつが「行程」
行程(主な観光地)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/01/02 06:09 UTC 版)
フランクフルト (Frankfurt am Main) フランクフルトはドイツ屈指の大都市で、ドイツのみならずヨーロッパの経済、交通の中心的な都市である。一方で歴史的建造物も第二次大戦後の灰燼の中から復元され、旧市街地のレーマー広場、神聖ローマ帝国皇帝の選挙や戴冠式の会場となった大聖堂など見所は多い。ゲーテの生家はレーマー広場から200mほどの位置にある。またゲーテ・ハウスに隣接してゲーテ博物館が設けられている。 ハーナウ (Hanau)、シュタイナウ (Steinau am Straße) この2つの街はグリム兄弟とのゆかりが深い町で、ドイツ・メルヘン街道にも属している。ハーナウのマルクト広場にはグリム兄弟の銅像があり、シュタイナウにはグリム記念館がある。また、シュタイナウはドイツ木組みの家街道にも属しており、木組みの美しい民家を見ることができる。メルヘン街道と木組み建築街道はシュタイナウから北へ進み、ゲーテ街道は北東へ向かう。 フルダ (Fulda) 聖ボニファティウスが建立した修道院から発展した街。大聖堂、領主の居城などのバロック建築が多い。ゲーテは旅の途中でこの街に宿をとるのを常としており、この宿は現在もホテルとして営業している。 アイゼナハ (Eisenach) テューリンゲン地方を代表する観光都市。作曲家ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(大バッハ)の生地であり、マルティン・ルターが学んだ地である。市内中心部にあるゲオルク教会は国外追放令を受けたルターが説教を行い、大バッハが洗礼を受けた記念的建造物である。また、バッハ記念館やルターが下宿していたルター・ハウスなどが人気。 アイゼナハのすぐ南にはユネスコの世界遺産にも登録されている山城ヴァルトブルク城がある。ワーグナーの楽劇『タンホイザー』の舞台となった歌合戦の広間、ルターが新約聖書のドイツ語翻訳を行ったルターの小屋、壮麗な祝宴の広間、眼下に広がるテューリンゲンの森など見所は多い。 エアフルト (Erfurt) テューリンゲン州の首都。1808年、ヨーロッパ会議のためにこの街に入ったナポレオンは、州長官官邸にゲーテを招いて謁見した。この官邸の近くには、ゲーテやシラー、フンボルト兄弟らが集ったサロンとなっていたダッヘレーデン邸が遺されている。ヨーロッパ会議が行われたカイザーホールも現存している。このホールは多目的ホールで、数多くの芝居や音楽作品が初演された場所としても有名である。 エアフルトは、また80近くの教会を持つ街であり、中心地の丘の上に並び立つ大聖堂と聖セヴェリ教会やルターが修行したアウグスティーナー修道院教会など、教会の見所も多い。 ヴァイマル (Weimar) 1775年、ゲーテはカール・アウグスト公爵に招かれヴァイマルに移り、以後生涯の大半をこの地で過ごした。ヴァイマル公国は、図書館や宮廷劇場を市民に開放するなど積極的な文化政策を進め、小国ながらドイツにおける文化的中心となっていた。領主城館はゲーテがこの街に来る前年に焼失しており、現在の建物はゲーテの時代に建てられたものである。ゲーテは市街の東の外れにある公園にガルテン・ハウスという家を与えられ住んでいたが、1782年に新たな邸宅を市内に与えられ、亡くなるまでここに住んだ。この屋敷は現在も保管され公開されている。ゲーテがイェーナ大学に招いたシラーもヴァイマルに家を構えており、亡くなるまでの数年を過ごしている。ゲーテとシラーの銅像が国民劇場の前に建っているが、この国民劇場は、ゲーテが劇場監督を務め、シラーの作品を多く上演した劇場であり、後にはフランツ・リストやリヒャルト・シュトラウスが音楽監督を務めた劇場でもある。「ヴァイマル憲法」として知られているヴァイマル共和国の憲法が採択されたのもこの劇場であった。ヴァイマルの南郊にはゲーテやシラーの遺体が安置されたヴァイマル公家廟やさらに南にはベルヴェデーレ離宮がある。この街は「古典主義の都ヴァイマル」としてユネスコの世界遺産に登録されている。 イェーナ (Jena) 古い大学の街で、ゲーテが文部行政に腕をふるった当時には、彼自身が招聘したシラーの他に、ヘーゲル、フィヒテ、シェリング、ショーペンハウエルらが教授として名を連ねている。イェーナはまた、カール・ツァイスの工場を擁する光学器械の街でもあり、ショッピング・アーケード内に最古のツァイス・プラネタリウムが展示されている。イェーナ郊外にはルードルシュタットやドルンブルクの古城群といった比較的知られていない古城があり、隠れた観光名所となっている。 ライプツィヒ (Leipzig) 1765〜68年にゲーテはライプツィヒ大学で学んでいる。ゲーテゆかりの居酒屋の前にはファウスト博士とメフィストフェレスの銅像が建っている。しかし、ライプツィヒは作曲家メンデルスゾーンが生まれ、彼が再発見した大バッハが音楽監督兼カントールを務め、多くの優れた作曲家を輩出した音楽院を擁する音楽の都でもある。バッハの聖トーマス教会やメンデルスゾーンの生家が主要な観光名所となっている。
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行程 (主な観光地)
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「ドイツ・アルペン街道」の記事における「行程 (主な観光地)」の解説
リンダウ (Lindau) バイエルン州の南西端ドイツ、オーストリア、スイス三国の国境をなすボーデン湖の小島に位置する街。かつては水運で栄え、帝国自由都市の地位を得ていたが1802年にナポレオンによりバイエルン州に併合させられた。現在は対岸の新市街と橋で結ばれている。旧市街は歩いて回れるほどの小さな島であるが、かつての豪商の館が軒を連ね、旧市庁舎に描かれた精密な壁絵が昔日の繁栄を物語る。 フュッセン (Füssen) ロマンティック街道の終着点。ドイツ・アルペン街道はここからしばらく、逆行する形でロマンティック街道と重なっている。これとは別にフュッセンから南に下り、一旦国境を越えてオーストリアの街ロイテ (Reutte)を経てリンダーホーフ城に至る別ルートもある。 シュヴァンガウ (Schwangau)、シュタインガーデン (Steingaden)、ヴィルトシュタイク (Wildsteig) いずれもロマンティック街道に属する街。この辺りはルートヴィヒ2世ゆかりのノイシュヴァンシュタイン城やホーエンシュヴァンガウ城、ドイツ・ロココの最高傑作でユネスコの世界遺産にも登録されているヴィースの巡礼教会と、ロマンティック街道のハイライトとも言うべき観光名所が数多く存在している。 オーバーアマガウ (Oberammergau) 美しい壁絵と木彫の街だが、この街を何より有名にしているのは十年に一度行われる町を挙げての大規模なキリスト受難劇である。1632年に近隣の街でペストが大流行したが、この街までそれが及ばなかったことを感謝して1634年より始まったもの。出演できるのはこの街の出身者か長年の住人に限られた、いわば素人芝居ではあるが、10年に1度の祭りとあって、ヨーロッパ中から多くの観光客が押し寄せる。 リンダーホーフ城 (Schloß Linderhof) オーバーアマガウからエッタールへ向かう途中を西に入ったリンダーグリースという谷間にある。ルートヴィヒ2世が建設した3つの城のうち、唯一完成した城で、ヴェルサイユ宮殿の一角にある大トリアノン宮殿を模して作られている。 エッタール (Ettal) 豪壮な修道院で知られる。修道院は1330年の創設であるが、現在の建物は18世紀に建造された巨大なバロック建築である。 ガルミッシュ=パルテンキルヒェン (Garmisch-Partenkirchen) 元々別個の二つの村だったが、スキーやハイキングのリゾート地として発展した結果、互いの市街地が接するようになり一つの街となった。それぞれの旧村落が昔の面影をとどめている。パルテンキルヒェンから6kmほど北のファルハント (Farchant)へ至る「哲学者の道」は、ドイツ最高峰(2,962m)のツークシュピッツェ (Zugspitze)をはじめとするドイツ・アルプスの峰々のパノラマを楽しむことができる絶好のハイキング・コースとなっている。そのツークシュピッツェへは登山鉄道とロープウェイを乗り継いで、山頂まで登ることができる。 ミッテンヴァルト (Mittenwald) ガルミッシュ=パルテンキルヒェンからヴァルガウ (Wallgau)への途中で南に折れたところにある街。新しい道路から外れているため観光客もまばらで静かな田舎町だが、かつてはドイツとヴェネツィアとを結ぶ交易路上の宿場町として栄えた。1684年、マティアス・クロッツがクレモナからヴァイオリン製作の技法を携えてこの街に居を構え、自らヴァイオリンの製作を行うとともに後進の指導にも当たったため、以来、この街は現在でもドイツにおける弦楽器製作の中心的役割を担っている。街にはヴァイオリン製作博物館もある。 この街の民家の壁には可憐な壁絵が描かれており、イタリアへの旅の途中でこの街に立ち寄ったゲーテは、「まるで絵本のような街」とその美しさを讃えている。 街の南にそびえるカーヴェンデル (Karwendel) へはロープウェイで山頂近くまで登ることができ、気楽なハイキングを楽しむことができる。 ベルナウ (Bernau) ガルミッシュ=パルテンキルヒェンからアルペン街道は、緑豊かな丘陵地の中を、森を抜け、湖を眺めながら北東へとすすみ、ベルナウでキーム湖の南の湖畔に達する。湖上のヘレンキームゼー島にはルートヴィヒ2世がヴェルサイユ宮殿そっくりに建設しようと試みたヘレンキームゼー城がある。1788年から建造が始まったこの城は結局完成せず、現在に至っている。この島は、元々修道院があった場所で、かつての修道院の一部が遺されている。キームゼー湖には、もう一つ、フラウエンキームゼー島という島もあり、こちらには聖母マリア女子修道院がある。それぞれの島へ渡るには湖の西岸の町プリーンから連絡船に乗る。 ベルヒテスガーデン (Berchtesgaden) ドイツ・アルペン街道の終着点は、ドイツの南東端の街である。この街から数km南にあるケーニヒス湖 (Königssee) はヒトラーの別荘があったことでも有名であるが、静謐で神秘的な美しさを湛えた湖である。両岸から急峻な岩山の断崖が迫り湖岸を歩くことは困難で、遊覧船での観光となる。雪山を背景にその姿を湖面に映す聖バルトロメー礼拝堂は、ドイツ・アルペン街道を象徴する風景として観光ポスターやガイドブックによく用いられている。 湖尻のイェンナーという山に登るためのロープウェイがあり、山頂まで登るにつれ、緑豊かな牧草地、瑠璃色の湖、峻険な岩肌が見せる鮮やかなコントラストを楽しむことができる。
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行程(主な町)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/24 13:51 UTC 版)
ツヴィッカウ (Zwickau) ツヴィッカウ炭田と呼ばれる炭鉱地帯の中央に位置しており、古くからザクセン工業地帯の中心として栄え、旧東ドイツ時代にはトラバントの製造メーカーもこの地にあった。ロマン派の作曲家ロベルト・シューマンの生地としても知られており、町にはシューマンの銅像や生家跡が残る。 シュネーベルク (Schneeberg) 鉱山の町だが、この地にある聖ヴォルフガング教会は16世紀中期に建てられた大規模な後期ゴシック建築であり、改革派教会建築の典型として知られている。 アウエ (Aue) シュヴァルツェンベルク (Schwarzenberg) アウエからシュヴァルツェンベルク一帯は第二次世界大戦終戦後、その帰属が決まらず、数週間の間、シュヴァルツェンベルク自由共和国として独立していた期間がある。 アンナベルク=ブッフホルツ (Annaberg-Buchholz) この町は錫、銀、コバルトを産出する鉱業の町であるが、その一方で、レース作りの町としても名高い。その技術は1561年にバーバラ・ウットマンにより伝えられた。街の泉には彼女の像が建てられている。また、16世紀の数学者アダム・リース(またはリーゼ)が後半生を過ごした街としても知られており、彼の記念館がある。見所は、1525年完成の聖アンネン教会で、ザクセン地方のバロック建築の白眉である。 ヴォルケンシュタイン (Wolkenstein) マリエンベルク (Marienberg) 16世紀のシルバー・ラッシュにより生まれ、栄えた町。ザクセン版ロビン・フッドというべきカール・ステュルプナーの伝説が残る町で、町はずれの塔にある郷土博物館には、その武器やジオラマが展示されている。 オルベルンハウ (Olbernhau) 銅の産地でありその加工技術で栄えた。1537年この地に銅の精錬所が築かれたという記録があり、中世後期の銅の精錬技術を考える上で興味深い。16世紀にはすでに20もの鉱坑をもつ小さな鉱工業都市を形成していた。 ザイダ (Sayda) ザイダから南東約10kmの国境の町ザイフェン(Seiffen)は木製のおもちゃの町として知られており、クリスマスに飾られるピラミッドやクリッペ(聖書の場面のジオラマ)、特にくるみ割り人形はこの地の人気の工芸品となっている。元々は17世紀頃に錫鉱山の鉱夫達が副業として始めたものが専業化したもの。博物館も内容豊かで見応えがある。 ザイダの北東20kmほどの町フラウエンシュタイン(北部の集落クラインボプリッチュ)がジルバーマン兄弟の出身地でジルバーマン博物館がある。ザイダからフラウエンシュタインに向かう途中の町ナッサウには、ゴットフリート・ジルバーマンが病に倒れる前最後に完成させた(1748年)オルガンが保存されている。 レンゲフェルト (Lengefeld) ブラント=エルビスドルフ (Brand-Erbisdorf) レンゲフェルトから北西に15km、ブラント=エルビスドルフから西南西に20kmほどのところにアウクスブルク城がある。この城館は狩のために建てられた城館(Jagdschloss)で狩猟用の城館として完全な状態で保存されている例の一つである。 ブラント=エルビスドルフから西に10kmほどのエーデラン (Oederan)には『Klein-Erzgebirge』(小エルツ山地)というミニチュア・パークがあり、エルツ地方の見所160カ所がおよそ25分の1スケールで再現展示されている。 フライベルク (Freiberg) 1160年に開かれた古い鉱山町であると同時に、1765年創立の世界で2番目に古い鉱山学の大学フライベルク鉱業工科大学(de:Technische Universität Bergakademie Freiberg)を擁する大学の町でもある。古くから栄えた町だけに見所は多くある。フライベルク聖マリア教会聖堂は後期ゴシック様式の教会で2台のゴットフリート・ジルバーマンのオルガンを備えている。またペトリ=ニコライ教会やヤコブ教会にもジルバーマン・オルガンが設置されている。1790年に創立された劇場は、1800年にウェーバーの歌劇『森の娘』が初演された場所である。また、鉱業関連の博物館も多くある。 ドレスデン (Dresden) ザクセン州の州都。エルツ地方で産出される鉱物資源を背景に、古くから栄華を誇った街である。第二次世界大戦では、ドイツ屈指の工業都市であったため、徹底的な爆撃を受けて壊滅的な被害を受けた。しかし、旧市街は徐々にその栄光の姿を取り戻し、2004年周囲のエルベ渓谷とともにユネスコの世界遺産に登録された。 また、ドレスデンはその富を背景にして、芸術が栄えた都であり、世界屈指の歴史を誇る歌劇場ドレスデン国立歌劇場を擁し、ツヴィンガー宮殿のアルテ・マイスター絵画館は、ラファエロ、レンブラント、ルーベンス、フェルメール、デューラーらの作品を含むすばらしいコレクションで知られている。さらにツヴィンガー宮殿の陶磁器コレクションは、その量・質ともにこれを凌駕するものはないと言われている。これらを含め市内に12もの美術館があり、これらをドレスデン美術館と総称する。
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行程(主な観光地)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/24 13:55 UTC 版)
「ニーベルンゲン=ジークフリート街道」の記事における「行程(主な観光地)」の解説
ヴォルムス (Worms) ヴォルムスは、紀元前のケルト時代にはすでに集落が形成されていた、ドイツで最も古い歴史を誇る町の一つである。5世紀にはブルグント王国の首都として栄えた。この当時のヴォルムスとその周辺が、中世叙事詩『ニーベルンゲンの歌』の重要な舞台であり、英雄ジークフリートの最期の地である。ニーベルンゲン=ジークフリート街道はこの叙事詩にちなんで命名された。 ヴォルムス大聖堂は、その入場の順番を巡ってジークフリートの妻クリエムヒルトとグンター王の妻ブリュヒントが諍いを起こし、ジークフリートが殺害される遠因となった場面の舞台であるが、現在の建物は11世紀から12世紀に建築改修を繰り返された建物で、叙事詩に登場する建物ではない。この大聖堂は、神聖ローマ帝国の帝国議会が開催された場所であり、1521年マルティン・ルターの破門が決定したのもこの建物においてのことであった。 ライン川の畔の財宝を沈めるハーゲンの像やニーベルンゲン博物館などもある。また、毎年開催されるニーベルンゲン演劇祭 (Wormser Nibelungenfestspiele)も人気である。 ビュルシュタット (Bürstadt) ロルシュ (Lorsch) 764年に建立された修道院の門前町として繁栄した。修道院自体は10世紀の大火で焼失し、以後再建されるも失火を繰り返し、現在遺された創建当時の建造物は入り口の門だけである。しかし、この門はカロリング朝の建築物としてアーヘンの聖堂と並んで文化史上極めて貴重な遺構であり「ロルシュの王立修道院とアルテンミュンスター」としてユネスコの世界遺産に登録されている。 この街の教会にはジークフリートの棺とされる棺が遺されている。 街道はここロルシュから、ニーベルンゲン街道とジークフリート街道に別れオーデンヴァルトへと入って行く。ニーベルンゲンの歌では、ジークフリートはワスケンの森へ狩りに出かけた時にハーゲンによって暗殺されたと詠われているが、その森はヴォルムスからライン川を渡ってまっすぐという伝承から、現在のオーデンヴァルトがその舞台であったとされている。
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行程(主な町)
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「ベルクシュトラーセ」の記事における「行程(主な町)」の解説
行程を北から南へ向かってたどる。 ダルムシュタット (Darmstadt) ダルムシュタットは、現代音楽講習会やユーゲントシュティール様式の建築に代表される芸術と文化の町である。マチルダの丘は、ヨゼフ・マリア・オルブリッヒにより芸術家村として整備され、彼の手による建築やペーター・ベーレンス自身の作による自邸といったユーゲントシュティール様式の邸宅が点在する。同じ丘にあるロシア風の教会や中心部のルイーズ広場、郊外には狩の城館クラニッヒシュタインと見所は多い。 ゼーハイム=ユーゲンハイム (Seeheim-Jugenheim) ローマ人が持ち込んだアーモンドや栗が実る、古くから避暑地として知られた土地で「ドイツのリヴィエラ」の異名を持つ。泡沫会社乱立時代と呼ばれる1870年代には、あらゆる様式の邸宅が建ち並ぶ高級住宅地となっていた。現在では遊歩道や屋外プールを備えた美食のリゾートとなっている。 ビッケンバッハ (Bickenbach) 交通の便が良い場所に位置しており、休日にはエーレン湖で釣りを愉しむために人々が訪れる保養地である。1950年以降毎年行われている民俗祭が人気で、多くの観光客を集めている。 アルスバッハ=ヘーンライン (Alsbach-Hähnlein) 標高517mのメリボクス山を背景に、散策路や登山路が整備されている。特に春はオーデンヴァルトの新緑と丘陵地の花々が魅力的。また、750年以上の歴史を誇るアルスバッハ城からはライン川まで見渡すことができる。 ツヴィンゲンベルク (Zwingenberg) 1258年に創立した山の教会を中心とした町。旧市街は入り組んだ露地と急勾配の階段で構成され、角を曲がると中世さながらの木組み住宅や小さな広場が現れ、その先にはまた新たな角が現れる。観光客には教会の祭りや旧市街の夏祭りが人気。 ベンスハイム (Bensheim) ベンスハイムはワインの名産地として知られ、「ワインと花の町」と讃えられる。9月のブドウ収穫祭、5月のワイン業者祭にはとりわけ多くの人々が訪れるが、市内のワイン酒場では年中美味しいワインと美食を愉しむことができる。旧市街の木組み住宅の町並みも見所の一つ。郊外のアウエルバッハ地区には、13世紀の無骨なアウエルバッハ城や、18世紀の優美なヘッセン方伯の夏の館があり、歴史の奥行きを感じることができる。レクリエーション施設も充実しており、「ブドウ畑の小径」、「花の小径」といった名前の付けられたハイキングコース網が整備され、人気である。 ベルクシュトラーセはベンスハイムからロルシュまでニーベルンゲン街道、ロルシュからヘッペンハイムまでジークフリート街道という観光街道と共通の行程をたどる。 ロルシュ (Lorsch) 連邦道路B5はベンスハイムからまっすぐに南下しヘッペンハイムに入るが、観光街道としてのベルクシュトラーセはベンスハイムから西南西に約5km離れたロルシュに向かう。ロルシュには、ユネスコの世界遺産にロルシュの王立修道院とアルテンミュンスターとして登録された修道院跡が遺る。この門はカロリング朝時代の遺構で、ドイツで最も古い建造物の一つである。 ヘッペンハイム (Heppenheim) 古くからロルシュの修道院と密接な関係にある町。修道院を護るために1065年に建設されたシュタルケン城(Starkenburg)の丘の麓にある町。町の中心である聖ペーター聖堂からマルクト広場にかけては中世さながらの木組み住宅が建ち並ぶ。ユストゥス・フォン・リービッヒが住み込んだ薬局や博物館、ワイン市場や祝祭など観光資源にも恵まれている。この町からジークフリート街道は東へ向かう。 ラウデンバッハ (Laudenbach) ライン平野を臨む眺望のよい地であり、丘陵地ではブドウ栽培が盛ん。野外教育施設が充実している。 ヘムスバッハ (Hemsbach) ロトシルト城、十分の一税倉庫、旧市庁舎、聖ラウレンティウス教会を持つ歴史の町。ヴィーゼン湖での水遊びや、ネッカー渓谷への散策旅行も楽しめる。 ヴァインハイム (Weinheim) 2つの城をシンボルに持つ町。12世紀に建てられたヴィンデック城 (Burg Windeck)は1674年にフランス軍の攻撃によって破壊され塔とわずかな城壁を遺す廃墟となっている。もう一つのヴァッヘンブルク城は、外観こそ中世風であるが、ドイツで2番目に古い学生組合であるヴァインハイム・シニオーレン・コンヴェクト (WSC) の本部、会議場として20世紀になってから建設されたものである。 ヒルシュベルク・アン・デア・ベルクシュトラーセ (Hirschberg an der Bergstraße) 緩やかな丘陵地の斜面にあり、豊かな果実が実る土地である。グロスザクセン地区には、紀元前500年前後、後期鉄器時代にあたるラ・テーヌ期のケルト人の遺跡や、ローマ時代のゲストハウスである「ヴィラ・ルスティカ」(de:Villa rustica)の遺跡も見つかっており、古くから人が住み着いていたことが分かる。聖ヨハネス巡礼教会には「黒い聖母」があり、信仰を集めている。 シュリースハイム (Schriesheim) ヴァインハイムとハイデルベルクの間に位置しており、30年戦争の舞台の一つである。古い市庁舎が残る旧市街、テオ・ケルグ博物館、クリスチャン=マイアー天文台、観光鉱山「アンナ=エリーザベト坑」、歴史に残るワイン畑「マドーネンベルク(聖母の山)」などが見所。シュトラーレンベルク城址からのライン平野の眺望はすばらしい。 ラーデンブルク (Ladenburg) 紀元1世紀から続く古い歴史の街で、旧市街祭りの市の日は多くの人で賑わう。自動車を発明し、ベンツ社を創設したカール・ベンツ終焉の地であり、カール・ベンツ自動車博物館並びにギャラリーが人気。 ドッセンハイム (Dossenheim) ハイデルベルク (Heidelberg) 古い城下町であり、ドイツ最古の歴史を誇る大学を擁する学園都市であり、その大学を舞台にした戯曲『アルト・ハイデルベルク』と古城址で名高い国際的な観光都市でもある。ファンタスティック街道の起点になっており、古城街道もこの街を経由して行く。年間を通して多くの観光客が訪れる街である。 ライメン (Leimen) ヌスロッホ (Nußloch) スポーツ施設が充実しており、保養地として人気の町。カトリックのバロック教会やルター派の小教会も見所である。 ヴィースロッホ (Wiesloch) ベルクシュトラーセの終着地ヴィースロッホは典型的なワイン町である。周囲にはワイン山が広がり、訪れる人たちの散策の的となっている。またラウエンベルク地区の郷土博物館は、かつてのワイン業者の館を改造したワイン博物館であり、巨大なワイン搾り器や樽職人の職場などが展示されている。14世紀の市壁の名残や1077年に記録されている市教会、18世紀の聖ラオレンティウス教区教会などの旧市街も楽しめる。
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行程
「行程」の例文・使い方・用例・文例
- グランドキャニオンはここから車で1日の行程です
- 私たちの旅の最終行程はバスだった
- ここからその映画館まではほんの短い行程です
- たいていの場合、行程は以前と似ている。
- 彼は一連の行程に躓く。
- 私はある都合によりその行程を変更しなければなりません。
- 彼の行程表を作りました。
- 我々は旅行の最後の行程を歩かなければならなかった。
- モスクワに着くには、あと4日の行程です。
- 当地から 1 日の行程.
- 彼らは全行程を 10 時間で踏破した.
- 東京から列車で半日の行程だ.
- 一行は 1 日の行程平均 25 キロメートルの速さで進んだ.
- 彼は無事にそのラリーの全行程を走破した.
- 幾日の行程か
- 一日の行程
- 軍隊は一日の行程十マイルの速力で進行する
- それは長い行程だった
- それから私たちはカリブ海クルーズの第2行程に入った
- 初期の写真行程によって作られる写真
行程と同じ種類の言葉
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