マルクト‐ひろば【マルクト広場】
マルクト広場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/12/05 15:58 UTC 版)
マルクト広場(マルクトひろば)は、ドイツ語やオランダ語/フラマン語などがおもに用いられる地域において、「市場」を意味する「Markt」を含む名称(ドイツ語: Marktplatz、オランダ語: Markt など)が市街地内の広場の固有名称となっているものを指す表現。市庁舎やギルドハウスが、この広場に面して立地していることが多い。
- ブレーメン#マルクト広場周辺 - 世界遺産「ブレーメンのマルクト広場の市庁舎とローラント像」
- ネルトリンゲン#マルクト広場
- ラーデンブルク#マリアの泉とマルクト広場
- ネッカーズルム#市庁舎とマルクト広場
関連項目
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マルクト広場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 09:50 UTC 版)
聖ゲオルク教会の北側にはマルクト広場があり、中世には毎年10日間、ここで見本市が開催された。布地の商人達は、ブロート・タンツハウスに商品を展示していた。この建物は1442年から1444年に建設されたもので、上層階は祝祭ホールとして使われていた。この建物と橋でつながっているのが木組み建築のメツィヒである。普段は肉屋 (Metzger) の売店が占めているのだが、見本市の時期には売り場が拡張して利用された。さらに1304年の文献にはすでに登場するヘーエ・ハウスもある。 向かい側に立つゲストハウス「ツア・ゾンネ」(太陽亭)は1350年に建設され、1405年から領主館として用いられていた。1500年頃には皇帝フリードリヒ3世とマクシミリアン1世、1548年にカール4世、1788年にはヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテがゲストとして宿泊し、1970年にはアポロ月面旅行計画の宇宙飛行士らが宿舎とした。 この建物のすぐ北隣に市庁舎がある。聖ゲオルク教会や市内の多くの建物同様、ネルトリンガー・リースで産出される多孔性のスーバイトを用いて建設されている。1313年にはすでに販売記録にその名が記されており、当時は市場の販売会場として利用されていることが立証された。1382年に市はこの建物を賃借し、それ以後ずっと市庁舎として使われている。1500年頃に上層階に階段破風が設けられ、建物の張り出し部が取り付けられた。1509年に宝物塔、1618年に印象的なルネサンス様式の階段口が増築された。16世紀にシュヴァーベン同盟の代表者が会した大集会ホール内にはハンス・ショイフェリンの大きくて貴重なフレスコの壁絵がある。 ブロート・タンツハウス 市庁舎(左)と太陽亭(右) 市庁舎の階段口
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