どう‐てい〔ダウ‐〕【道程】
どうてい〔ダウテイ〕【道程】
みち‐のり【道▽程】
道程
道程
作者桃さくら
収載図書僕のセクシャルハラスメント 2
出版社青磁ビブロス
刊行年月1996.2
シリーズ名ビーボーイノベルズ
道程
道程
道程
作者久野徹也
収載図書ショートショートの広場 20
出版社講談社
刊行年月2008.3
シリーズ名講談社文庫
道程 (詩集)
(道程 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/27 02:17 UTC 版)
『道程』(どうてい)は、大正時代の詩人・彫刻家高村光太郎が自費で1914年に刊行した詩集。1910年から1914年にかけて『スバル』『朱欒』『白樺』『創作』などで発表された詩、小曲など76編を収める。1940年11月改定版発刊、1945年1月再改訂版発刊。改訂版では当初から40編が削除され、27編が追加されている。1940年改訂版により1941年度第一回帝国藝術院賞を受賞[1]。
- ^ 日本藝術院賞受賞者一覧
- ^ a b コトバンク:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 道程とは
- ^ 高村光太郎著『某月某日』(国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 朝日新聞:コミミ口コミ 高村光太郎「道程」の原稿、全国初公開(2007年5月5日)
- ^ 山梨県立文学館: 企画展 高村光太郎 いのちと愛の軌跡2007年4月28日-6月24日
- 1 道程 (詩集)とは
- 2 道程 (詩集)の概要
- 3 外部リンク
道程
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 07:41 UTC 版)
魏志倭人伝には、魏の領土で朝鮮半島北部ないし中部に当時あった郡 から邪馬台国に至る道程が記されている。 倭人在帶方東南大海之中 依山島爲國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國從郡至倭 循海岸水行 歴韓國 乍南乍東到 其北岸狗邪韓國七千餘里 始度一海千餘里 至對海國 其大官曰卑狗副曰卑奴毋離所 居絶島方可四百餘里 土地山險多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田食海物自活 乗船南北市糴 又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國 官亦曰卑狗副曰卑奴毋離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食亦南北市糴 又渡一海千餘里 至末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛行不見前 人好捕魚鰒 水無深淺皆沈没取之 東南陸行五百里 到伊都國 官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 世有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐 東南至奴國百里 官曰兕馬觚副曰卑奴毋離 有二萬餘戸 東行至不彌國百里 官曰多模副曰卑奴毋離 有千餘家 南至投馬國水行二十日 官曰彌彌副曰彌彌那利 可五萬餘戸 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮 可七萬餘戸 自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 次有斯馬國次有巳百支國次有伊邪國次有都支國次有彌奴國次有好古都國次有不呼國次有姐奴國次有對蘇國次有蘇奴國次有呼邑國次有華奴蘇奴國次有鬼國次有爲吾國次有鬼奴國次有邪馬國次有躬臣國次有巴利國次有支惟國次有烏奴國次有奴國 此女王境界所盡 其南有狗奴國 男子爲王 其官有狗古智卑狗 不屬女王 自郡至女王國 萬二千餘里 (中略) 計其道里 當在會稽東冶之東 対海国、一大国、末廬国、伊都国、奴国、不彌国、投馬国、邪馬台国に関しては、「魏志倭人伝」に詳しい記述がある。位置については畿内説と九州説が有力とされる(#位置に関する論争を参照)。道程についても「連続説」と「放射説」がある(#邪馬台国に関する論争を参照)。位置や道程の比定をめぐっては論争が起きてきた(#邪馬台国に関する論争を参照)。 その他、斯馬国、百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国 があり、女王国の南には男王卑弥弓呼が治める狗奴国があり女王国と不和で戦争状態にあった。なお、天照大神の神話の系図によれば、薩摩等の隼人の部族もまた天照の子孫であり、天照と卑弥呼は置かれていた状況にも類似点が伺える。 なお、古代朝鮮の高句麗は那、奴といった地縁的政治集団から成り立っており、殉死の文化があり、248年まで東川王があったが、魏が240年代に高句麗を攻撃し国都を陥落させて撤退したとき、王は沃沮(東海・日本海側)の地に身を隠している。邪馬台国地域の国名に現われる奴の文字は、同じように(あるいは高句麗渡来の)地縁部族を示している可能性がある。
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道程
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 13:33 UTC 版)
金屋の集落を後にして三輪山の山麓を北へ行くと三輪山の神である大物主を祭神とする大神神社につく。大神神社は、日本最古の神社で大和国の一宮である。三輪山信仰は縄文または弥生時代まで遡るかも知れない。 大神神社からさらに北の沿道には、茅原大墓古墳・景行天皇陵・崇神天皇陵・櫛山古墳・西殿古墳・東乗鞍古墳・西乗鞍古墳などの古墳群がある。また、茅原大墓古墳のすぐ西側に、倭迹迹日百襲姫命の墓とされる箸墓古墳があり、古代・邪馬台国を治めていた卑弥呼の墓とする説もある。古墳時代にはいると山麓地帯には墳丘長200メートルを超える巨大古墳が造られた。『古事記』には、「山辺道の勾の岡(まがりのおか)」の近辺に崇神天皇の陵(墳丘長242メートル)が、山辺道の近辺に景行天皇の陵(310メートル)があると記している。初期大和政権がこの地に誕生したと考えられている。 このように両天皇の墓が「山辺道」の近辺にあると『古事記』に記されているところから8世紀の初めにはこの道が出来ており、7世紀末の藤原京時代にもできあがっていたのではないかと推測できる。 現在では静寂さを取り戻しており、山裾の曲がりくねった道ではある。また、飛鳥、藤原の時代には、この海石榴市が栄えていた。
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道程
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三界の詳細な位置関係は不明ながら、東から西へ「人界」・「獄界」・「神界」と地続きに連なっている。本編は三蔵一行が葬頭国に差し掛かるところから始まる。「通天河」到達時点で、三蔵が長安の国境を出発してから少なくとも6年前後経過しているとの描写がある。地域名横の()内は作中で判明している滞在期間。
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道程
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「ティブルティーナ街道」の記事における「道程」の解説
元々、ティーブルの聖域を訪れる巡礼者が通った道を元にしていた。 その後、郊外に立派な別荘を作るローマ貴族達の通る道となった。 ティブルティーナ・ヴァレーリアという名前が付けられ、それまでに属州となったアエクイ人やマルシ人の領土の政治的な支配を容易にするため、また200km以内でアペニン山脈を越えアドリア海を繋ぎオスティア・アテルニ(現在のペスカーラ)に至るために延長された。 今日でもローマとペスカーラを結び、国道5号ティブルティーナ街道という名前が与えられている。
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道程
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「三谷坂 (高野参詣道)」の記事における「道程」の解説
明治時代になり紀の川に架橋されるまで、京都方面から来た場合には紀の川の渡しを利用したことから、丹生酒殿神社近くの、紀の川中流の三谷津で下船し、丹生酒殿神社から三谷坂へ向かったとされる。現在も紀の川の堤防脇に丹生酒殿神社石碑が建ち、ここが実質的な起点となる。丹生酒殿神社に参拝した後、社殿の背後に位置する宮滝で水垢離による潔斎を行い三谷坂を登り始める。 宮滝を出て鋒立て岩・経文岩の少し先までは果樹園が広がり、休憩所と水場が設けられている頬切地蔵までは林道として舗装されている。区間最高地点となる笠松峠の前後は古道が途切れており、和歌山県道109号志賀三谷線に出る。その後再び山道へ戻ると、後は下りとなり、再度県道109号に抜けると丹生都比売神社へと至る。 現在、三谷坂を登る際にはJR和歌山線の妙寺駅が起点となり、紀の川に架かる三谷橋を渡り丹生酒殿神社を目指すことになる。また、下る場合には丹生都比売神社と笠田駅の間をかつらぎ町コミュニティバスが運行している(バスで丹生都比売神社へ先に行き、下ってくることも可)。 紀の川沿いの丹生酒殿神社参道碑 丹生酒殿神社 現在の三谷坂の起点 水垢離潔斎した宮滝 笠石 かつらぎ町と紀の川を一望 「遍路道」の表示 笠松峠 三谷坂の終端 丹生都比売神社
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道程
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/21 14:49 UTC 版)
いのちの行進は正午頃に始まる。通常は、4番ストリート付近にあるナショナル・モールでの集会で参加者達が構成される。コンスティテューション・アベニュー北西側を下り、ファースト・ストリート北東側で右折し、その後は終点の米国最高裁判所階段まで行進が続き、そこで別の集会が開催される。デモ参加者の多くは、バラを届けて国会議員にロビー活動することで、一日が始まる。
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