正午頃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 03:36 UTC 版)
「アンティータムの戦い」の記事における「正午頃」の解説
正午までに戦闘は南軍戦線の中央に移った。サムナーは午前の戦闘でセジウィックの師団に同道していたが、もう一つの師団であるフレンチはサムナーやセジウィックとの連絡がとれないままに、不可解にも南に向かっていた。フレンチは戦闘に入る機会を熱心に求めており、行く先で散兵を見付けると自隊に前進を命じた。この時までにサムナーの副官(かつ息子)がフレンチの所に来ており、西の森での恐ろしい戦闘の様子を語り、敵の中央を攻撃することで南軍の注意を逸らせるという命令を伝えた。 フレンチ軍はD・H・ヒルの師団と対峙した。ヒルは約2,500名を率いていてフレンチ軍の半分以下であり、かつその5個旅団のうち3個は朝の戦闘で消耗していた。ロングストリートの受け持つこの部分は理論的に最も弱い所であった。しかし、ヒルの部隊は緩やかな尾根の上に強固な防御態勢で配置しており、長年荷馬車が通って轍ができた道路は自然の塹壕を形成していた。 フレンチは午前9時半頃にヒルの間に合わせの胸壁に対して旅団単位の一連の攻撃を掛けさせた。最初に攻撃をかけた旅団はマックス・ウェーバー准将が指揮する経験の足りない部隊であり、猛烈なライフル射撃によって早々に打ちのめされた。この時点では両軍共に大砲を使っていなかった。第2の攻撃はドワイト・モリス大佐のさらに新兵ばかりの旅団であり、同じように猛火に曝されたが、ロバート・ローズのアラバマ旅団による反撃を何とか撃退した。第3の攻撃はネイサン・キンボール准将の旅団であり、これには古参兵の3個連隊が含まれていたが、窪んだ道からの銃火でやはり撃退された。フレンチの師団は1時間のうちに5,700名のうち1,750名の損失を出した。 両軍共に援軍が到着した。午前10時半までに、リー将軍は最後の予備部隊であるリチャード・H・アンダーソンの師団約3,400名をヒルの戦線補強に送り、右方に展開してフレンチの左翼を包み込むような攻撃の準備をした。しかし、同時にイズラエル・B・リチャードソン少将の4,000名の師団がフレンチの左翼に到着した。これがサムナーの軍団に属する3個師団の最後のものであり、マクレランが予備部隊を組織したときに後方に控えさせられていた。リチャードソンの新手が最初の一撃を放った。 窪んだ道路への4回目の攻撃を行ったのはトーマス・フランシス・マハー准将のアイルランド旅団であった。この旅団がそよ風にエメラルドグリーンの連隊旗をはためかせて前進すると、連隊付き牧師のウィリアム・コービー神父が馬に乗って隊列の前を前後し、まさに死なんとしている者達のためにローマ・カトリック教会によって規定された条件付き贖罪の言葉を叫んだ(コービーは1863年のゲティスバーグの戦いでも同じ事をした)。大半がアイルランド移民の旅団は、撤退を命じられるまでに激しい一斉射撃のために540名の損失を出した。 リチャードソン将軍は(コールドウェル隊が後方の干し草の山の背後にいると告げられた後)正午頃にジョン・C・コールドウェル准将の旅団をじきじきに戦闘に向かわせ、ここでやっと流れが変わった。アンダーソンの南軍師団は戦闘の初期にアンダーソンが負傷した後は、防御兵にたいしてほとんど支援が無かった。ジョージ・B・アンダーソン(アンダーソンの後任第2ノースカロライナ連隊のチャールズ・C・テュー大佐は、指揮を代わった数分後に戦死した)や第6アラバマ連隊のジョン・B・ゴードン大佐(ゴードンは戦闘中に4カ所の重傷を負った。彼は意識を失って帽子に顔を埋めて俯せに倒れており、後に仲間に語ったところでは、名も知らぬヤンキー(北軍兵)が撃った弾が帽子に穴を明けていなければ、自分の血で窒息していただろうが、実際には帽子の穴から血が抜けて救われたということであった)など他の中心となるべき指揮官も失われていた。南軍のローズは太腿を負傷しながらもなお戦場にいた。これらの損失が直接次のような混乱を生んだ。 我々は囲いの中の羊のように彼らを撃っていた。もし1発が最初は目標を逸れたとしても、その先のどこかに当たり、跳ね返って二次的に彼らに当たった。 第61ニューヨーク連隊の軍曹 コールドウェル旅団が南軍の右翼あたりに前進すると、第61および第64ニューヨーク連隊のフランシス・C・バーロー大佐とその350名の部隊が、戦列の弱い地点を見付けて窪んだ道を見下ろす小山を占領した。これで南軍の戦列を縦射することが可能になり、そこは破壊的な罠に変わった。この脅威に対応しようと旋回を試みたローズの司令を、意識の無いジョン・ゴードンを引き継いでいたジェイムズ・N・ライトフット中佐が誤解した。ライトフットは兵士達に回れ右をさせ後退を命じたが、この命令は旅団の全5個連隊とも同じように適用されると考えられた。南軍はシャープスバーグ方面に流れ、その前線は崩壊した。 リチャードソンの部隊は激しく追撃していたが、ロングストリートが急いで集めた大砲が彼らを追い返した。D・H・ヒルに率いられた200名の部隊による反撃が、窪んだ道路の近くで北軍の左翼を襲い、第5ニューハンプシャー連隊の激しい突撃で撃退されたが、このことで中央の崩壊を止めた。リチャードソンは不本意ながらその師団に窪んだ道路に面する尾根の北への後退を命じた。その師団は約1,000名が失われていた。バーロー大佐は重傷を負い、リチャードソンは致命傷を負っていた。ウィンフィールド・S・ハンコックが師団指揮を継いだ。ハンコックは後に攻撃的な師団や軍団の指揮官として名声を得た者ではあったが、予期しない指揮官の交代で北軍の前進の弾みが損なわれた。 午前9時半から午後1時までの窪んだ道路での大虐殺は、「Bloody Lane(血塗られた通路)」という名前を与えられ、道路沿い800ヤード (720 m)に約5,600名の死傷者(北軍3,000名、南軍2,600名)を残した。まだそこには大きな機会が存在した。もし、この南軍戦列の破れ目に付け込まれていたら、北バージニア軍は2つに分割され、恐らくは敗北していたであろう。北軍にはそうするための十分な戦力があった。予備隊として3,500名の騎兵隊とポーターの第5軍団10,300名の歩兵が、1マイル (1.6 km)離れた中央の橋近くに待機していた。第6軍団は12,000名で到着したばかりだった。第6軍団のウィリアム・B・フランクリン少将はこの突破口に付け込む用意ができていたが、上級の師団指揮官であるサムナーは前進しないように命じた。フランクリンは、両者の議論を聞くために後方の本部を離れていたマクレランに訴えたが、マクレランはサムナーの判断の肩を持ち、フランクリンとハンコックにその陣地を保つように命令した。 その日遅く、中央部近くにいた他の予備隊である第5軍団指揮官のフィッツ・ジョン・ポーター少将は、第2師団を指揮するジョージ・サイクス少将から、もう一度中央を攻撃する提案を聞き、その考えはマクレランの注意を惹いた。しかし、ポーターはマクレランに「将軍、私は共和国の最後の軍隊の最後の予備隊を率いていることを覚えておいてください」と告げたと言われている。最終的にマクレランは予備隊の保持を決断した。後にA・P・ヒルの思わぬ来援があったことや、リーが側面や背後の奇襲を得意としていたことを考えれば、これは決して誤った判断とは言えない。
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