正卿へ
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そして紀元前566年、韓厥が老齢の為に正卿を引退すると、次卿・中軍の佐にあった智罃が、正卿・中軍の将の座に就いた。邲の戦いで捕虜の憂き目にあってから31年目にして、遂にその汚名をそそいだ。 だが、同じ年に嫡男の智朔が子息の智盈(智悼子)誕生直後に急逝するという悲運に遭遇してしまう。 その後も智罃は、晋と楚の間で右往左往する鄭の動向に悩まされながらも、晋の覇権を固める為に徳治を推し進め、同時に智氏の基盤も固めていった。 紀元前560年に病没。死後、「武」を諡され、智武子と呼ばれる。家督は嫡孫の智盈が継いだが、まだ6歳と言う幼年なため、智氏は暫くの間低迷期に入る事になる。
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正卿へ
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鄢陵の戦いの前年の紀元前576年に、賢大夫として知られる伯宗が、郤至達に讒言されて誅殺された際には、「善人を殺した郤氏には必ず災いが下る」と非難し、その通りに紀元前574年に郤氏が滅ぼされた。更にその翌紀元前573年、欒書が荀偃(中行偃)と共に晋の厲公を殺す企みに誘われた際には「君主を殺して威を立てる事等出来ない」と陰謀に加担する事を拒否した。そして欒書が厲公を殺して引退すると、その篤実さを買われて正卿となり公平な政治を行った。 紀元前566年に老年のため、正卿の座を智罃に譲り、家督も息子の韓起に譲って引退した。 死後、「献」を諡され、韓献子と呼ばれる。 先代: 韓輿 韓氏当主 第5代 次代: 韓起
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