正卿となる
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紀元前573年、趙武は悼公から新軍の将に任命され、卿としての第一歩を踏み出した。紀元前560年には韓厥の子の韓起の推挙を受けて、上軍の将へと昇格したが、栄華を極めた趙一族が一度は瓦解したことを教訓として、徳を積み、常に温和な風貌を保ち、自ら一歩退く姿勢をとり続けた。 紀元前548年に士匄(范宣子)逝去の後を受けて正卿・中軍の将となると、次卿の韓起や相談役の羊舌肸(叔向)とともに、南の大国である楚との講和を目指した。紀元前546年7月に弭兵の会を催して、楚や斉、鄭、宋等の周辺諸国との講和を実現させ、晋の名宰相と世に称えられた。 しかし、紀元前541年になると、急激に体の衰えを見せ始めた。もう先がないことを悟った趙武は、同年12月1日に祖先の合祭をおこなった。その直後の12月7日に死去。享年57。趙家を再興させ、楚や周辺諸国との講和という大業を成したことから、諡号「献文」を諡され、趙文子と呼ばれることになった。
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正卿となる
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 14:27 UTC 版)
紀元前514年、正卿・中軍の将の座にあった韓起が病没した為、次卿の魏舒がその後釜となった。その直後、魏舒は祁氏(祁奚・祁午の子の家)の内部争いに乗じて、智躒(智文子)や趙鞅(趙簡子)など他の六卿と共に、目障りな存在である公族の祁氏と羊舌氏(羊舌肸(叔向)の子の家)を滅ぼし、その領地に子息や自分の息のかかった大夫達を配置し、魏氏の勢力を更に固めていった。 この様に魏舒は、正卿・中軍の将として得意の絶頂にあったが、紀元前509年に成周での城壁建設の為に諸侯の大夫と共に会盟を催した際、その余興として狩りを行ったが、その時獲物を山から燻り出そうとして火をつけたものの、その火災に自分が巻き込まれて大火傷を負い、それが元で亡くなってしまうと言う、正卿にあるまじき無様な最期を遂げてしまった。 死後、家督は魏取が継いだ。そして「献」を諡され、魏献子と呼ばれる。
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