斉に辱められる
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 14:28 UTC 版)
後に士会が正卿となった時に、郤克も次卿・中軍の佐に昇格して、士会の治世を支えた。 紀元前592年の春に郤克は、斉に断道(山西省)で行われる諸侯会議への参加を求めるために外交の使者として赴いたが、斉(頃公)とその母の蕭同叔子に自分の怪異な風貌を笑われるという大恥辱を受けてしまう。呵怒りに震える郤克は、その帰路に河伯(黄河の神)に復讐を誓い、晋に帰ると景公や士会に斉の討伐を願い出る。だが許されなかったので、郤氏単独で斉に攻め込もうとしたが、その怒りの凄まじさを見た士会から、断道の会盟後の同年8月に正卿・中軍の将の職を譲られたので、怒りを抑えて国政に打ち込むことにした。
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