斉の出兵
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紀元前354年、魏・衛・宋の三国連合軍は趙の国都の邯鄲に侵攻した。趙は門を閉門して防守し、斉に救いを求める伝者を送った。同盟軍は邯鄲を包囲し、一気に趙を滅ぼそうとした。威王は趙の危機を知り、救援のために出兵しようとした。しかし将軍の段干朋は遅れて出兵して魏軍が疲弊したときを狙う戦略を提案した。その戦略は、すぐに少ない兵力で南に向かい襄陵を攻撃して、魏の国力を疲弊させ、魏が邯鄲を落として、魏と趙が再び戦うことができないときに正面から攻撃することであった。威王は提案を採用し、趙と魏の両軍が一年以上膠着状態となり邯鄲城が落ちたときのみ、田忌を総大将、孫臏を軍師とした斉軍主力を率いて趙を支援することを決めた。
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斉の出兵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/25 07:54 UTC 版)
威王は趙の危機を知り、救援のために直ちに出兵しようとした。しかし将軍の段干朋は遅れて出兵して魏軍が疲弊したときを狙う戦略を提案した。その戦略は、まず少数の兵力で南に向かい襄陵を攻撃することで、趙を助ける姿勢を示し、なおかつ魏を牽制し疲弊させつつ、そのまま魏軍が邯鄲を攻撃して落とすまで待ち、魏と趙の双方が再び戦う力を失ったときに、はじめて斉が正面から攻撃する戦略であった。威王はこの提案を採用し、趙と魏の両軍が一年以上膠着状態となり邯鄲城が失陥する直前に、田忌を総大将、孫臏を軍師として斉軍主力を率いて趙を支援することを決めた。
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