斉の宰相と馮驩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 01:58 UTC 版)
斉に帰った田文は宰相になり、紀元前298年に匡章を統帥とする韓・魏との連合軍で秦を討った(函谷関の戦い)。 田文は、宣王の子の湣王のもとで宰相として内外の政治に当たり、斉の国力を高めた。しかし国が富強になると湣王は増長し、他国に強圧的な外交を行うようになる。そしてそれを諌める田文と、「田文あっての斉」という風評を疎ましく思うようになり、宰相を罷免される。 宰相を罷免されたことで、田文のもとにいた3000人の食客も立ち去っていったが、馮驩(ふうかん)という食客だけは残った。馮驩は田文を斉の宰相に復職させるため策を用いて宰相に復職させた。田文が斉の宰相に復職すると、馮驩は立ち去った食客たちを呼び戻すように進言した。しかし田文は自分が貧窮していたときに立ち去った食客を詰った。それに対し馮驩は好悪の情で去ったのではなく自分の識見を活かせなくなったので去っただけと諭して呼び戻すことを認めさせた。 田文と馮驩については、『史記』「孟嘗君伝」に記されている。 「馮驩」を参照
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