宰相として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 03:34 UTC 版)
幼帝を擁した張居正は独裁的な手腕を振るい、次々と改革を実行していった。まず、官吏の弾劾を行う職である言官や各地の書院などの口を封じて独裁権を確立し、冗費の撤廃・綱紀粛正などを行った。そして張居正の功績として最大のものが、全国的な丈量の実施と一条鞭法の実施である。 当時、地方に強い勢力を張っていた郷紳勢力は所有地の量をごまかして報告し、税逃れをすることが多かったが、張居正はこれに断固として挑み、大量の隠し田を摘発した。 それまでの税制である両税法は項目が多岐にわたり、あまりにも複雑化した結果、不公平が酷くなっていた。一条鞭法はそれを一本化し、課税対象を土地に移して、さらに当時普及が進んでいた銀による納税にした。 これらの改革により明の財政は大きく好転し、国庫には10年分の食料と400万両の余剰金が積み上げられたと言う。 しかし、その一方で言論弾圧・既得権の侵害などにより、朝野には張居正に対する不満が満ちた。万暦5年(1577年)には父が死去し、本来ならば服喪(丁憂)のために職を辞さねばならなかったが、離職中の弾劾を恐れて職務を続けた。これに対して、万暦帝が15歳であることから奪情(皇帝が臣下に喪に服さずに職務を続けさせる)の勅命を出すべきとする意見と辞職して故郷の湖広に戻るべきだという意見が対立し、後者の人々が配流されたり免職や左遷の処分を受けている(奪情問題)。万暦9年(1581年)に病に倒れ、翌年に死去した。齢58。上柱国の封号と文忠の諡を贈られた。
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