中央の宰相として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 09:36 UTC 版)
1268年(至元5年)に初めて中央の監察機関たる御史台が設置されると、尚書省のアフマドがその必要性を疑問視する声を上げた。これに対し、廉希憲が御史台は古制に則るもので国家内外の綱紀粛正に必要なものであると説き、アフマドの反対論を封じ込めたという。1270年(至元7年)には囚人の釈放にまつわる案件でクビライと対立し、耶律鋳とともに一度官を辞した。廉希憲はこの間読書を中心とする清貧な生活を送っていたが、政敵のアフマドが「廉希憲は妻子と宴楽に財っている」とクビライに讒言したところ、クビライは怒って「清貧な廉希憲がどうして宴楽に耽ることがあろうか」とアフマドを咎めたという。また、廉希憲が病に陥った時にはクビライは医者を3名派遣しており、この間でもクビライの廉希憲に対する信頼は揺るがなかった。
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