中央と地方と、官と在野と
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/26 14:05 UTC 版)
開元7年(719年)、進士に及第し、弟の王縉とともに、俊才ぶりにより、名声を得る。大楽丞になるも、開元8年(720年)、微罪を得ていったん済州司倉参軍に左遷される。この理由として「集異記」は、皇帝しか舞ってはいけない「黄師子」という舞を彼の楽人が舞ったことに連座したと伝えられるが、諸王に近づきすぎたため、玄宗による切り離し政策により左遷されたという説もある。開元14年(726年)頃、官を辞めて、長安に帰る。この頃、張九齢と孟浩然に詩才を激賞される。開元19年(731年)頃、妻が死去し、輞川に土地を購入し、別荘を構え隠棲する。 程なく多くの士人からの推薦により、中央に復帰。張九齢の抜擢により、開元22年(734年)には右拾遺に就任する。科挙出身者を中心とする士族派閥に与し、韋恒・韋済兄弟とも親しく交際し、彼らの父の韋嗣立の建てた別荘で開かれた宴に張九齢・裴耀卿・韓休らとともに列席し、宴の序を作成している。また、道士の尹愔とも親しくしていたことが伝えられる。この頃に、孟浩然を宮廷にいれて詩を吟じていたところ、たまたま玄宗が訪れたため、孟浩然は机の下に隠れた。王維は真実を話し、玄宗に孟浩然を紹介し、そのために、孟浩然は玄宗に謁見がかなったという説話が残っている。 だが、開元24年(736年)に張九齢が、貴族派閥の李林甫との政争に敗れ、失脚する。開元25年(737年)、王維もまた、涼州の河西節度使の崔希逸の節度判官に任じられ、涼州に赴任し、そこで、監察御史に昇進する。開元28年(740年)、殿中侍御史として、長安に戻り、さらに南方に遣わされる。途中の襄陽で孟浩然と出会うが、帰路には彼は死去していた。その後、玄宗のために応制の詩を詠じる任につき、李林甫のために詩を詠んだこともあった。天宝年間に入り、左補闕・員外郎・庫部郎中を歴任する。この頃、輞川の別荘にこもって、友人たちとの詩のやり取りを楽しんでいたことが伝えられる。 天宝9載(750年)、母の崔氏の死を受けて服喪する。この時、輞川の別荘を一部を寺に変え、嘆きの余りに痩せて死にかけるほどであった。服喪後、天宝11載(752年)、朝廷に復帰する。同年に李林甫が死去し、楊国忠に重んじられ、吏部郎中となる。また、天宝12載(753年)には、阿倍仲麻呂が日本に帰る際、彼のために彼を送る詩を詠じた。さらに、天宝14載(755年)には給事中の要職に至った。
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