裴耀卿とは? わかりやすく解説

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裴耀卿

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/10 10:10 UTC 版)

裴 耀卿(はい ようけい、681年 - 743年)は、唐代官僚政治家は子煥[1]本貫絳州稷山県[2][3]

経歴

寧州刺史の裴守真の子として生まれた。幼くして聡明俊敏で、数歳で文章を理解し作ることができた。童子挙に及第した。弱冠にして秘書正字に任じられた。まもなく相王府典籤をつとめ、府中で「学直」と称された。景雲元年(710年)、睿宗重祚すると、耀卿は国子主簿に任じられた。開元初年、長安県令に転じた。開元13年(725年)、済州刺史として出向した。玄宗が東巡すると、耀卿は3梁10駅を置いて負担を均等化した。また宣州刺史・冀州刺史を歴任し、いずれも善政で知られ、入朝して戸部侍郎となった[4][1]

開元20年(732年)、信安郡王李禕が契丹を討つと、耀卿はその補佐をつとめた。この年の冬、耀卿は京兆尹に転じた。開元21年(733年)12月、黄門侍郎同中書門下平章事(宰相)に任じられ、転運使をつとめた[5][6]。耀卿は河陰に河陰倉を置き、河清に柏崖倉を置き、江淮からの租米を納入する水運の物流拠点とした。黄河の難所である三門峡の東に集津倉を置き、西に塩倉を置いて、そのあいだの山18里を穿って陸運によって運ぶこととした[7]。およそ3年で銭30万貫の運送費用を節減できるようになった[8][9]

開元22年(734年)、侍中に転じた。開元24年(736年)、尚書左丞相に任じられ、知政事(宰相)を罷免され、趙城侯に封じられた[10][9]

天宝元年(742年)、尚書左僕射に任じられた。8月、尚書右僕射に転じた[11][12]。天宝2年(743年)7月丙辰、死去した[13]。享年は63。太子太傅の位を追贈された。は文献といった[14][12]

子女

  • 裴遂(太子司議郎)[15]
  • 裴泛(梁州都督)[15]
  • 裴汯(秘書少監)[15]
  • 裴綜(吏部郎中、子の裴佶が知られた)[14][16][12]
  • 裴皋(給事中)[17]
  • 裴延(通事舎人)[17]

脚注

  1. ^ a b 新唐書 1975, p. 4452.
  2. ^ 旧唐書 1975, p. 4924.
  3. ^ 新唐書 1975, p. 4473.
  4. ^ 旧唐書 1975, pp. 3079–3080.
  5. ^ 旧唐書 1975, pp. 3080–3081.
  6. ^ 新唐書 1975, pp. 4452–4453.
  7. ^ 新唐書 1975, p. 1366.
  8. ^ 旧唐書 1975, p. 3081.
  9. ^ a b 新唐書 1975, p. 4453.
  10. ^ 旧唐書 1975, p. 3082.
  11. ^ 旧唐書 1975, p. 215.
  12. ^ a b c 新唐書 1975, p. 4454.
  13. ^ 旧唐書 1975, p. 217.
  14. ^ a b 旧唐書 1975, p. 3083.
  15. ^ a b c 新唐書 1975, p. 2197.
  16. ^ 新唐書 1975, p. 2198.
  17. ^ a b 新唐書 1975, p. 2199.

伝記資料

参考文献




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