長安への輸送
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 01:03 UTC 版)
唐は首都を長安に定めたために「長運法」を取らざるを得なくなった。すなわち従来通り洛陽に集められた物資を、洛陽から陸上輸送を用いた官運によって長安に輸送する経路である。しかし長安に対する安定した食糧供給には至らず、唐の歴代皇帝は度々洛陽に「行幸」して宮廷の維持に努めなくてはならなかった。 こうした状況に危機感を抱いた玄宗は漕運を担当する専門官として転運使などを設け、裴耀卿・韋堅・裴迥らを任命した。裴耀卿は734年に民運を洛陽より手前の河陰(黄河と通済渠の中継地点)までに短縮し、河陰-洛陽間では輸送費の一部を徴収して官運を行うことで、漕運の効率化を図った(転搬法)。韋堅は長安を流れる渭水と並行する漕渠を整備した。また裴迥は、黄河の漕運制度の改革を行った。 これらの諸政策の結果、唐の漕運事業は年間400万石の輸送実績を挙げるまでに至ったが、安史の乱によってこの体制は早々に崩壊してしまうことになった。乱によって大運河は荒廃し、転搬法を支えていた沿岸の船や倉も破壊されてしまった。このため、一時は漢水から秦嶺山脈越えで長安に物資を運ぶという手段も取られたが、物資搬入は安定せずに時には長安の街中を飢饉が襲うようになった。 代宗の時に劉晏が転運使に任じられて漕運制度の再建に尽くし、揚州-長安間の漕運制度の整備を進めたことで漸く長安の食糧事情は安定した。劉晏は塩の専売制の改革者として名を知られているが、塩専売の改革も元は漕運制度の再建及び運営のための財源捻出のために考案されたものであり、実際に塩専売の収入はその目的で用いられている。 だが、唐末期によると、各地の藩鎮が自立して各地の河川や運河を自己の支配下に置くようになった。これらの勢力は長安への食糧や租税の輸送を妨害するばかりか、それらを接収して中央に反抗するための財源とする場合もあった。そのため、唐王朝は藩鎮を発運使に任じて漕運の責任者の地位を与えたものの効果は低く、漕運を失った王朝は次第に弱体化して滅亡への道を歩むこととなった。
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