滅亡へ
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義氏の死後は弟の大宝寺義興が継ぎ、本庄繁長より養嗣子の大宝寺義勝を迎えた。しかし、親上杉の姿勢に庄内の国人が反発し、義興は1587年に最上義光によって討たれ、義勝も実父・繁長の元へ逃れた。翌年、義勝は義光が大崎合戦で動けないと見るや、実父・繁長と共に十五里ヶ原の戦いで勝利し庄内を奪還した。その後上杉氏を通じて上洛し豊臣秀吉に臣従して豊臣姓と出羽守を得た。だが、奥州仕置きで藤島一揆が発生し、1591年に一揆扇動の罪科により改易され、ここに戦国大名としての大宝寺氏は断絶した。 その後、義勝は上杉氏の家臣になり罪も赦されたが庄内の支配権までは戻ることがなかった。そのため、実父である繁長の死後にその家督を継いで「本庄充長」と改名したため、大宝寺氏の家系は断絶した。
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滅亡へ
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詳細は「モンゴル・南宋戦争」を参照 しかしモンケはこの遠征途中で病死する。このときにクビライが攻めていた鄂州に援軍にやってきた賈似道はこれを退却させた(この戦いでは賈似道とクビライとのあいだに密約があったと後にささやかれることになる)。 モンゴルを撃退した英雄として迎えられた賈似道は、その人気に乗って宰相になり、専権を奮う。賈似道は巧みな政治手腕を示し、公田法などの農政改革に努める一方で人気取りも忘れず、その後15年にわたって政権を握った。 しかしモンゴル平原でアリクブケを倒し、権力を掌握したクビライが再度侵攻を開始し、南宋が国力を総動員して国土防衛の拠点とした襄陽を、1268年から1273年までの5年間にわたる包囲戦(襄陽・樊城の戦い)で陥落させると、南宋にはもはや抵抗する力が無く、賈似道は周りの声に突き上げられてモンゴル戦に出発し、大敗した。 徳祐2年(1276年)、モンゴルのバヤンに臨安を占領されて、事実上宋は滅亡した。このとき、張世傑・陸秀夫ら一部の軍人と官僚は幼少の親王を連れ出して皇帝に擁立し、南走して徹底抗戦を続けた。祥興2年(1279年)に彼らは広州湾の崖山で元軍に撃滅され、これにより宋は完全に滅びた(崖山の戦い)。
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