滅亡とイタリア統一
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 07:15 UTC 版)
「シチリア・ブルボン朝」の記事における「滅亡とイタリア統一」の解説
「イタリア統一運動」も参照 1859年にフランチェスコ2世が王位を継承する。その頃、イタリアではサルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世とその宰相カヴール伯爵カミッロ・ベンソがサヴォイア家の下でのイタリア統一を目指し、諸王国を次々と併合していったが、最大の障壁が両シチリア王国だった。そのような状況下で、シチリアの分離独立の動きは絶好の好機であった。 1860年5月11日、ジュゼッペ・ガリバルディ率いる赤シャツ隊がシチリアに上陸した。裏をかかれたボルボーネ軍はカラタフィーミの戦いで敗北した。5月27日にはパレルモに赤シャツ隊が突入して、壮絶な市街戦となった。市民の中には赤シャツ隊に呼応する者も多く、ボルボーネ軍は休戦協定を結んだ後にメッシーナへ後退した。7月20日のミラツォの戦いで、ボルボーネ軍は決定的な敗北を喫し、シチリアはガリバルディの手に落ちた。 シチリア失陥の報を聞いたフランチェスコ2世は、メッシーナ海峡の守備を固めて上陸に備えたが、ガリバルディは隙を見てナポリ本土に上陸する。フランチェスコ2世はナポリをガリバルディに明け渡し、ガエータの要塞に籠った。ここでは王妃マリア・ソフィアの活躍が目立った。マリアは自ら戦場に出て督戦し、負傷者を運んだり、食物を分け与えた。マリアの奮戦も空しく、1861年にガエータも陥落して、両シチリア王国は滅亡した。フランチェスコ2世はローマに亡命するが、そのローマも1870年にサルデーニャ王国に併合され、さらにパリへ逃れた。
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