滅亡か終戦か
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 03:29 UTC 版)
7月27日 米英中名義のポツダム宣言を外務省が受信。閣議はこれに対しノーコメントの方針。 7月28日 鈴木は記者会見で「私はあの共同声明はカイロ会談の焼き直しであると考えている。政府としては、なんら重大な価値あるとは考えない。ただ、黙殺するだけである。われわれは戦争完遂にあくまでも邁進するのみである。」と発言。ロイターとAP通信は「黙殺する」を'reject(拒否する)'と翻訳。 内閣記者団との会見において「この宣言は重視する要なきものと思う」との意味を答弁したのである。この一言は後々に至るまで、余の誠に遺憾と思う点であり.. 8月6日 am8:15広島市への原子爆弾投下。 8月7日 広島の爆弾は原子爆弾であるとトルーマンが声明。8日広島に行った仁科芳雄も原子爆弾と断定。 余はこの上は終戦する以外に道はないとはっきりと決意するに至った。 8月8日 モスクワ時間17時(日本時間23時)、ソ連のモロトフ外相が駐ソ佐藤尚武大使に、8月9日に対日参戦すると通告。 8月9日 0時からソ連対日参戦。10:30-13:00最高戦争指導会議。11:30長崎市への原子爆弾投下。14:30-22:00閣議。ポツダム宣言の受諾条件の議論がまとまらず。 余はそこで、閣内の意見対立のまま、いたずらに時を過ごすことは、一分を争う現下の情勢に忠実ならざること主張し、かくなる上は、陛下のご聖断を仰ぎ奉ろうと決意したのである。 8月9日 23:30御前会議招集。8月10日am0:03開始。 ところがこの八月九日から十日の午前二時にかけての御前会議においては、出席者の意見が三対三で根本的に対立してしまったのである。(中略) そこで余は、起立し、「議を尽くす事すでに数時間、なお論議はかくの如き有様で議なお決せず、(中略)これより私が御前に出て、思召をお伺いし、聖慮をもって、本会議の決定と致したいと存じます」と述べ、(中略) 余のお伺いにたいして、深くうなずかれ、余に自席へ戻るよう指示遊ばされてから、徐ろに一同を見渡して「もう意見は出つくしたか..」と仰せられた。一同は沈黙のうちに頭を深くたれて、陛下の次のお言葉をお待ち申し上げたのである。 「それでは、自分が意見をいうが、自分は外務大臣の意見に賛成する。」と仰せられた。ご聖断は下ったのである。 8月10日 am2:20聖断で御前会議終了。am3:00-4:00閣議再開し聖断を閣議決定。am6:45天皇制維持を保証するならポツダム宣言を受諾すると連合国へ電報。20:00同盟通信がこれを世界へニュースとして発表。 8月11日 バーンズ国務長官は天皇制是非についての回答を英ソ中と調整。 8月12日 天皇制についてのバーンズ回答が電文される。「天皇の権限は連合軍最高司令官の下に置かれる。」15:00-17:30閣僚懇談会。 8月13日 9:00-15:00最高戦争指導会議。16:00-19:00閣議。バーンズ回答を受け入れるか紛糾。 8月14日 10:00再閣議。それを11:00-12:00の緊急御前会議に切り替え、再度天皇の意を確認。 三名の意見開陳後、陛下には最後の断を下し給うたのである。 「自分の意見は去る九日の会議に示したところとなんら変わらない。先方の回答もあれで満足してよいと思う。」と仰せられ..
※この「滅亡か終戦か」の解説は、「終戦の表情」の解説の一部です。
「滅亡か終戦か」を含む「終戦の表情」の記事については、「終戦の表情」の概要を参照ください。
- 滅亡か終戦かのページへのリンク