聖断
聖断
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 08:24 UTC 版)
8月14日の夜が明けると、阿南は約束の通り荒尾を連れて梅津に面会に行ったが、梅津は反対を表明し、それが真意であった阿南も大きく頷いた。これによって、荒尾らが練りに練ったクーデター計画は空中楼閣と化してしまった。鈴木の発案による御前会議については、昭和天皇自身もその開催を待ち望んでおり、阿南は午後1時が都合がいいと申し出していたが、昭和天皇はなるべく早く開催せよと鈴木に命じて、午前11時開始となった。昭和天皇は御前会議開催までの間、陸海軍元帥の永野修身、杉山元、畑俊六を呼んで意見を聞いたが、3人とも色々な理由をつけて戦争継続を主張したので、昭和天皇は国際信義を失うなどと3人を諭している。このうち畑については、阿南がわざわざ広島市から呼び寄せたものであって、阿南は畑の説得で昭和天皇の翻意を促すつもりとの噂も流れたが、外の2人が「日本にはまだ敵に一撃を加える力がございます」と答えたのに対して畑だけが「自信がございません」と悲観論を述べている。このため、阿南の意図は噂の逆で、陸軍現役の長老の畑の影響力によって「承詔必謹」の外ないと、陸軍全部隊の意思統一を図ろうとしたという意見もある。 午前11時に開始された御前会議においては、阿南、参謀総長梅津、軍令部総長豊田がこれまでと同様に「このままの条件で受諾するならば、国体の護持はおぼつかなく、是非とも敵側に再照会をすべき」という意見を述べた。一通り意見を聞いた昭和天皇は「外に別段意見なければ私の考えを述べる」と静かに立ち上がり、時折、白い手袋で涙を拭いながら「私自身はいかになろうと、国民の生命を助けたいと思う。私が国民に呼び掛けることがよければいつでもマイクの前に立つ。内閣は至急に終戦に関する詔書を用意して欲しい」と述べた。天皇の聖断を聞いていた閣僚らの悲痛な空気はやがて慟哭に変わっていき、椅子からずり落ちる者や、床にくずれて号泣する者や拳を握りしめて耐える者などいた。やがて、鈴木は至急詔書勅案奉仕の旨を拝承し、繰り返し聖断を煩わしたことを謝罪して、昭和天皇は席を立った。阿南は、席を立った昭和天皇にとりすがるようにして慟哭したが、昭和天皇は涙で表情をくもらせながら「あなん、あなん、お前の気持ちはよくわかっている。しかし、私には国体を護れる確信がある」とやさしく説いた。しかし、このとき同席した軍令部総長豊田によれば、この日の阿南は既に死を覚悟していたようであり、冷静に昭和天皇の聖断を受け入れていたと著書に記述している。 その後一同は、首相官邸閣議室において鯨肉と黒パンの質素な昼食をとったが、阿南は昼食をとる間もなく別室で竹下らから陸相辞任による内閣総辞職、さらにクーデター計画「兵力使用第二案」への同意を求められていた。しかし阿南は「最後の御聖断が下ったのだ。悪あがきはするな。軍人たるものは聖断に従うほかない」「ぼくが辞職したところで終戦は確定的だよ」と竹下らに毅然とした態度で言って聞かせた。 阿南はその後に陸軍省に帰ると、陸軍大臣室には、クーデター計画の首謀者らを含む多くの陸軍将校が集まった。阿南は御前会議での昭和天皇の言葉を伝え「国体護持の問題については、本日も陛下は確証ありと仰せられ、また元帥会議でも朕は確証を有すと述べられている」「御聖断は下ったのだ、この上はただただ大御心のままにすすむほかない。陛下がそう仰せられたのも、全陸軍の忠誠に信をおいておられるからにほかならない」、と諄諄と説いて聞かせたが、クーデター計画の首謀者の1人であった井田は納得せず「大臣の決心変更の理由をおうかがいしたい」と尋ねると、阿南は「陛下はこの阿南に対し、お前の気持ちはよくわかる。苦しかろうが我慢してくれと涙を流して申された。自分としてはもはやこれ以上抗戦を主張できなかった」「御聖断は下ったのである。いまはそれに従うばかりである。不服のものは自分の屍を越えていけ」と説いた。 その後に阿南は陸軍高官を陸軍大臣室に招集して陸軍首脳会議を開催した。そこで参謀本部河辺虎四郎参謀次長が発議し、若松陸軍次官が書いた「陸軍ノ方針」である「皇軍ハ飽迄御聖断二従ヒ行動ス」という文書についての協議が行われ、阿南は真っ先に一読すると無言のままで署名した。これで「承詔必謹」は全陸軍の正式な方針として確定した。その後に陸軍課員以上を第一会議室に集めた阿南は「諸官においては、過早の玉砕は任務を解決する道でないことをよく考え、泥を食み、野に伏しても、最後まで皇国護持のために奮闘してもらいたい」と訓示したが、竹下は阿南が「我々」という言葉を使わず、わざわざ「諸官」という言い回しで自分自身を除外していることに気がついて、阿南は自決する覚悟だと悟っている。また、この場でも一部の佐官から抗議の声が上がったが、阿南はその者たちに対して「君等が反抗したいなら先ず阿南を斬ってからやれ、俺の目の黒い間は、一切の妄動は許さん」と大喝している。 時間は不明であるが、この日阿南は陸軍省の道場で剣道範士斎村五郎と面会し、短時間剣道の稽古をしている。阿南は多忙な勤務の中でも、剣道や弓道の稽古を怠ることはなく、特に好きだった剣道については、毎日素振りを欠かさず、人事局長時代には3段であったが、陸軍大臣時には5段まで昇段している。阿南は難問山積で悩みごとも多い中で、剣道や弓道によって精神統一をはかっていた。
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