軍令部総長とは? わかりやすく解説

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ぐんれいぶ‐そうちょう〔‐ソウチヤウ〕【軍令部総長】

読み方:ぐんれいぶそうちょう

軍令部長官


軍令部総長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/14 03:52 UTC 版)

軍令部総長(ぐんれいぶそうちょう)は、大日本帝国海軍軍令部(海軍軍令部)の長。現在の海上自衛隊海上幕僚長に相当する。

1933年(昭和8年)の軍令海第5号軍令部令により海軍軍令部長から軍令部総長に改名されたが、所属を明確化するために海軍軍令部総長とも呼ばれた。

歴代軍令部総長

大日本帝国海軍軍令部の長一覧
画像 姓名 就任時

階級

出身 海兵海大

卒業期

就任 備考 次長
1 仁礼景範 海軍少将 鹿児島 草創 1886年(明治19年)3月16日 海軍軍令部長から参謀本部次官、

更に参謀本部海軍部長に改称。

2 伊藤雋吉 海軍少将 京都 草創 1889年(明治22年)3月8日 海軍参謀部長に改称。  
3 有地品之允 海軍少将 山口 草創 1889年(明治22年)5月17日    
4 井上良馨 海軍少将 鹿児島 草創 1891年(明治24年)6月17日  
5 中牟田倉之助 海軍中将 佐賀 草創 1892年(明治25年)12月12日 海軍軍令部長に改称。  
6 樺山資紀 海軍中将 鹿児島 草創 1894年(明治27年)7月17日    
7 伊東祐亨 海軍中将 鹿児島 草創 1895年(明治28年)5月11日   諸岡頼之
伊集院五郎
上村彦之丞
出羽重遠
伊集院五郎
8 東郷平八郎 海軍大将 鹿児島 草創 1905年(明治38年)12月20日   伊集院五郎
三須宗太郎
9 伊集院五郎 海軍中将 鹿児島 海兵5期 1909年(明治42年)12月1日   藤井較一
10 島村速雄 海軍中将 高知 海兵7期 1914年(大正3年)4月22日   山下源太郎
佐藤鉄太郎
山屋他人
竹下勇
11 山下源太郎 海軍大将 山形 海兵10期 1920年(大正9年)10月1日   安保清種
加藤寛治
堀内三郎
斎藤七五郎
12 鈴木貫太郎 海軍大将 千葉 海兵14期

海大1期

1925年(大正14年)4月15日   斎藤七五郎

野村吉三郎
末次信正

13 加藤寛治 海軍大将 福井 海兵18期 1929年(昭和4年)1月22日   末次信正
14 谷口尚真 海軍大将 広島 海兵19期

海大3期

1930年(昭和5年)6月11日   永野修身
百武源吾
15 伏見宮博恭王 海軍大将 皇族 独海大

(18期相当[1]

1932年(昭和7年)2月2日 軍令部総長に改称。 高橋三吉
加藤隆義
嶋田繁太郎
古賀峯一
近藤信竹
16 永野修身 海軍大将 高知 海兵28期

海大8期

1941年(昭和16年)4月9日   近藤信竹
伊藤整一
17 嶋田繁太郎 海軍大将 東京 海兵32期

海大13期

1944年(昭和19年)2月21日   塚原二四三
18 及川古志郎 海軍大将 岩手 海兵31期

海大13期

1944年(昭和19年)8月2日   塚原二四三
小沢治三郎
19 豊田副武 海軍大将 大分 海兵33期

海大15期

1945年(昭和20年)5月29日 1945年(昭和20年)10月15日

軍令海第8号により廃止。

大西瀧治郎
高柳儀八

脚注

  1. ^ 海軍兵学校を中退してドイツ帝国海軍キール海軍兵学校及びキール海軍大学校に学んだため「期外」であるが、事実上18期として扱われた。(野村實『山本五十六再考』1996年、36頁)

参考文献

関連項目


軍令部総長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 23:37 UTC 版)

豊田副武」の記事における「軍令部総長」の解説

1945年5月29日、軍令部総長に着任昭和天皇は「司令長官失格の者を総長にするのは良くない」と豊田総長就任反対する旨を海軍大臣米内光政告げているが、米内は「若い者本土決戦派)に支持がある豊田なら若い者抑えて終戦持っていける」という意図天皇告げ押し切った。しかし結果的に若い者抑えるどころか押し切られた形になり、米内親し知人に「豊田裏切られ気分だ。見損なった」と述べ昭和天皇は「米内失敗だ。米内のために惜しまれる」と述懐している。 戦争末期軍令部次長大西瀧治郎中将とともに徹底抗戦訴えた。もっとも豊田自著で、太平洋戦争末期に於ける徹底抗戦主張和平派立場異にする事により、海軍内部における決戦派の暴走食止めたと自己弁護論を展開している。高木惣吉は、豊田見解対し苦し弁疏にすぎず論点甚だ不明」とした上で、「総長次長一方面、一戦場の指揮官ではなく陛下最高の統帥幕僚として戦争指導枢機をにぎり、国家全局大観すべき立場にあったはずである。戦局に引きずられ、全国民災難思いを致さなかったことは、断じて許されない誤りである」と厳しく批判している。吉田俊雄は「もしこのとき、(豊田終戦派についていて)はじめから対三でなく四対二のバランスであったら、現実のように、ポツダム宣言受諾ができたろうか。とすれば、この三対三という数字は、偶然にうなった考えてよいのか。いったい豊田総長心底は、どうだったのか」と書いている。 8月12日、軍令部総長の豊田陸軍参謀総長梅津美治郎とともにポツダム宣言受諾反対奏上する同日海軍大臣米内光政豊田大西二人呼び出した米内豊田行動を「それから又大臣には何の相談もなく、あんな重大な問題を、陸軍一緒になって上奏するとは何事か。僕は軍令部やること兎や角干渉するのではない。しかし今度のことは、明かに一応は、海軍大臣意見交えた上でなければ軍令部と雖も勝手に行動べからざることである。昨日海軍部内一般に出した訓示は、このようなことを戒めたのである。それにも拘らず斯る振舞出たことは不都合千万である」と非難し豊田済まないという様子一言答えなかった。

※この「軍令部総長」の解説は、「豊田副武」の解説の一部です。
「軍令部総長」を含む「豊田副武」の記事については、「豊田副武」の概要を参照ください。

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