軍令部総長
軍令部総長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 23:37 UTC 版)
1945年5月29日、軍令部総長に着任。昭和天皇は「司令長官失格の者を総長にするのは良くない」と豊田の総長就任に反対する旨を海軍大臣米内光政に告げているが、米内は「若い者(本土決戦派)に支持がある豊田なら若い者を抑えて終戦に持っていける」という意図を天皇に告げ押し切った。しかし結果的に若い者を抑えるどころか押し切られた形になり、米内も親しい知人に「豊田に裏切られた気分だ。見損なった」と述べ、昭和天皇は「米内の失敗だ。米内のために惜しまれる」と述懐している。 戦争末期、軍令部次長大西瀧治郎中将とともに徹底抗戦を訴えた。もっとも豊田は自著で、太平洋戦争末期に於ける徹底抗戦主張で和平派と立場を異にする事により、海軍内部における決戦派の暴走を食止めたと自己弁護論を展開している。高木惣吉は、豊田の見解に対し「苦しい弁疏にすぎず論点甚だ不明」とした上で、「総長、次長は一方面、一戦場の指揮官ではなく、陛下最高の統帥幕僚として戦争指導の枢機をにぎり、国家の全局を大観すべき立場にあったはずである。戦局に引きずられ、全国民の災難に思いを致さなかったことは、断じて許されない誤りである」と厳しく批判している。吉田俊雄は「もしこのとき、(豊田が終戦派についていて)はじめから三対三でなく四対二のバランスであったら、現実のように、ポツダム宣言受諾ができたろうか。とすれば、この三対三という数字は、偶然にそうなったと考えてよいのか。いったい豊田総長の心底は、どうだったのか」と書いている。 8月12日、軍令部総長の豊田は陸軍参謀総長梅津美治郎とともにポツダム宣言受諾の反対を奏上する。同日海軍大臣米内光政は豊田と大西の二人を呼び出した。米内は豊田の行動を「それから又大臣には何の相談もなく、あんな重大な問題を、陸軍と一緒になって上奏するとは何事か。僕は軍令部のやることに兎や角干渉するのではない。しかし今度のことは、明かに一応は、海軍大臣と意見を交えた上でなければ、軍令部と雖も勝手に行動すべからざることである。昨日海軍部内一般に出した訓示は、このようなことを戒めたものである。それにも拘らず斯る振舞に出たことは不都合千万である」と非難し、豊田は済まないという様子で一言も答えなかった。
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