末次信正
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末次 信正(すえつぐ のぶまさ、1880年(明治13年)6月30日[注 1] - 1944年(昭和19年)12月29日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍大将、従二位・勲一等。第1次近衛内閣の内務大臣。坊ノ岬沖海戦で戦死した末次信義海軍中佐は長男。
注釈
- ^ 同年3月2日に米内光政(29期)、6月15日に永野修身(28期)が誕生。米内は中学卒業と同時に兵学校入校である。末次は19歳7月で兵学校を卒業している。同期生で20歳未満で卒業したのは10人に満たない。
- ^ なお、軍令部の中枢は軍令部長(のち総長)のほか次長、作戦部長、作戦課長であったが、この三職を歴任したのは海軍史上、末次信正と近藤信竹の2名のみである[4]。
- ^ 昭和十一年の「邀撃作戦要綱」も同様である[8]
- ^ 元資料は機密費を取り扱う海軍省先任副官であった古賀峯一が作成した「軍令部機密費支払収支」。
- ^ 枢密院の実力者である伊東巳代治、平沼騏一郎、山川健次郎らは幣原外交への不満があり、軍縮条約に反対していた
- ^ のち伏見宮は賛成に回ったが、その説得にあたったのは鈴木貫太郎である。鈴木は加藤寛治の前任の軍令部長で、軍令部の反対に不満があった。[20]
- ^ それまで兵力量を定めるのは軍政事項とされ、ワシントン海軍軍縮条約では問題になっていない。末次ら艦隊派は不満を抱き、のちに「省部互渉規定」の改正により軍令部が主導することとなった[21]
- ^ 鈴木貫太郎が二・二六事件で襲撃される原因の一つとなった
- ^ 『大海軍を想う』「悲劇ロンドン会議」なお筆者の伊藤正徳は当時時事新報編集局長で、朝日新聞の緒方竹虎らとキャッスル事件に巻き込まれている。この事件は、米国大使キャッスルが日本の言論界を買収し軍縮条約に賛成させたという中傷の類で、伊藤はその出所は軍令部某有力提督としている
- ^ 犯人の佐郷屋留雄は暗殺の理由に統帥権干犯を挙げている
- ^ 伏見宮軍令部長の呼称が軍令部総長となり、軍令部の権限が強化された。昭和天皇はこの改正を一度差し戻している
- ^ 二・二六事件では事件発生の朝、艦隊派の伏見宮、加藤寛治は真崎甚三郎と連絡を取り合い三人で宮中へ参内している。事件後加藤、真崎は憲兵隊の取調べを受けた。この件に末次の関与は認められていない。なお軍事参議官のうち山本英輔は反乱軍に同情的であったが、末次、中村良三、小林躋造、野村吉三郎は已ムヲ得ザレバ海軍兵力ヲモ行使スベシの見解で一致している[24]
- ^ 逆に艦砲射撃に消極的であったのが堀悌吉である
- ^ 当初の末次は、大陸への陸軍兵力派遣に否定的であった[26]
- ^ 大角岑生海軍大臣が末次の連合艦隊司令長官への親補を内奏した際、昭和天皇は末次に懸念を示し、大角を叱責している[28]
- ^ 開戦直前は対米7割が実現していた
- ^ 中野正剛の東方会、橋本欣五郎の大日本青年党らの革新右翼の集合体
- ^ 伏見宮と末次の間がいつから円滑を欠いたかは不明だが、伏見宮の末次に対する不信は当時から部外にも知られていた。末次の政界への転身も両人の不仲が影響したといわれていた[33]
- ^ 海軍次官でも直接政治に関わることは許されなかった
- ^ 米内は宴席で末次の胸ぐらを掴み詰め寄ったことがあり、両人は口を利かない冷たい仲であった
- ^ この時伏見宮は「奴だけは許さぬ」と激昂している
- ^ 米内が井上成美を次官としたのは、この後である
- ^ 予備役から現役復帰するための規定はなく、米内の現役復帰は昭和天皇の特旨で実現した。一方末次に対して昭和天皇は「私は末次の総長に反対した」と述べている[47]
- ^ 末次は循環器系の病で死去したが、昭和天皇の信任がないことを知ったことが影響しているのではないかと推測する者もいる[49]
- ^ 末次の第二艦隊司令長官時代に先任参謀を務めた宇垣纏は、その死を惜しんでいる[50]
- ^ 随員であった堀悌吉は米国の対応は紳士的であったと末次と見解が分かれている[52]
- ^ 統帥権干犯は北一輝の造語であり、兵力量に関してはそれまで問題になることはなかった
- ^ 海兵58期。岳父は山内豊中海軍少将
- ^ 『歴代海軍大将全覧』では大佐となっている。
出典
- ^ 『大衆人事録』「末次信正」
- ^ a b c 『回想の日本海軍』小柳富次「歴代聯合艦隊司令長官の横顔」
- ^ a b c d e f g h i j 『昭和史の軍人たち』「末次信正」
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』「海軍主要人事系譜」
- ^ a b 『歴代海軍大将全覧』「第六章 末次信正」
- ^ a b 『自伝的日本海軍始末記』
- ^ 『大海軍を想う』「潜水艦の消長」
- ^ 戦史叢書10 1967.
- ^ 『昭和海軍秘史』pp198-199
- ^ 『湛山回想』p219
- ^ 『歴史と名将』p.169
- ^ 上記の理論に当てはめると、日米の戦力差は100対48.650625である
- ^ 『山本五十六再考』pp14-15
- ^ a b c 『岡田啓介回顧録』
- ^ 『日本海軍失敗の研究』pp.129-135
- ^ 『昭和天皇独白録』p32
- ^ 日露戦争前の1903年(明治36年)における一般会計歳入は2.6億円
- ^ 『海軍と日本』p74
- ^ 『海軍と日本』p76
- ^ 『山本五十六再考』第一部「鈴木侍従長の説得」
- ^ 『海軍と日本』pp83-84・『連合艦隊興亡記(上)』pp143-144
- ^ 『海軍の昭和史』p59
- ^ 『提督 米内光政の生涯』 (下)p58
- ^ 『父と私の二・二六事件』pp236-255
- ^ a b 『昭和海軍秘史』野村直邦「太平洋戦争前夜」
- ^ 『海軍の昭和史』p67
- ^ 『海軍と日本』p93
- ^ 『牧野伸顕日記』pp550-551)
- ^ 『海軍と日本』p127
- ^ 『牧野伸顕日記』pp580-581
- ^ 『加藤寛治日記』末次信正「軍縮対策私見」
- ^ 『昭和史発掘』(第5巻)pp.166-167,216
- ^ 『一軍人の生涯』p118)
- ^ 『山本五十六再考』pp194-197・『昭和史の軍人たち』p303
- ^ 『海軍の昭和史』p100
- ^ 『海軍の昭和史』pp18-19
- ^ a b 『近現代日本人物資史料情報辞典』p.223
- ^ 『四人の軍令部総長』「永野修身」
- ^ 『かくて、太平洋戦争は終わった』pp80-84
- ^ 『昭和史の軍人たち』p153。元資料は「政変に関する軍務課資料」
- ^ 『かくて、太平洋戦争は終わった』pp82-84・『日本海軍の終戦工作』pp97-98
- ^ 『海軍の昭和史』pp225-227
- ^ 『かくて、太平洋戦争は終わった』p110
- ^ 『新版 米内光政』p210・『かくて、太平洋戦争は終わった』p153
- ^ 『新版 米内光政』p222・『山本五十六再考』pp20-21・『一軍人の生涯』p37
- ^ 『戦史叢書45 大本営海軍部・聯合艦隊〈6〉―第三段作戦後期―』pp218-219
- ^ 『昭和天皇独白録』p115
- ^ a b c d e f g 「故海軍大将末次信正位階追陞の件」 アジア歴史資料センター Ref.A12090578900
- ^ 『山本五十六再考』pp20-21
- ^ 戦藻録・昭和20年1月4日
- ^ 『日本海軍、錨揚げ!』「昭和海軍変身の時代背景」
- ^ 『海軍の逸材 堀悌吉』「対米七割をめぐって」元資料は堀が記述した「ワシントン会議秘実」
- ^ 『提督 新見政一』大井篤「ファシズム下の新見さんと私」
- ^ 『岡田啓介回顧録』・『西園寺公と政局』
- ^ 『牧野伸顕日記』p551
- ^ 『井上成美』資料pp282-283
- ^ 石井妙子「原節子の真実」(新潮社)P.134
- ^ 『官報』第5337号「叙任及辞令」1901年4月22日。
- ^ 『官報』第5846号「叙任及辞令」1902年12月26日。
- ^ 『官報』第6355号「叙任及辞令」1904年9月3日
- ^ 『官報』第7899号「叙任及辞令」1909年10月21日
- ^ 『官報』第684号「叙任及辞令」1914年11月11日
- ^ 『官報』第3423号「叙任及辞令」1924年1月23日
- ^ 『官報』第358号「叙任及辞令」1928年3月10日
- ^ 『官報』第1496号「叙任及辞令」1931年12月23日
- ^ 『官報』第2164号「叙任及辞令」1934年3月22日
- ^ 『官報』第3073号「叙任及辞令」1937年4月2日
- ^ 『官報』第5391号「叙任及辞令」1945年1月8日
- ^ 『官報』第6729号「叙任及辞令」1905年12月4日。
- ^ 『官報』第8679号「叙任及辞令」1912年5月27日。
- ^ 『官報』第1189号・付録「叙任及辞令」1916年7月18日。
- ^ 『官報』第2978号「叙任及辞令」1922年7月6日。
- ^ 『官報』第2104号「叙任及辞令」1934年1月10日
- ^ 『官報』第5390号「叙任及辞令」1945年1月6日
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