軍令部作戦課長・作戦部長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/27 07:59 UTC 版)
「末次信正」の記事における「軍令部作戦課長・作戦部長」の解説
1919年(大正8年)の軍令部第一課長(作戦課長)となる。 詳細は「ワシントン軍縮会議」を参照 1922年(大正11年)のワシントン軍縮会議では次席随員を務める。条約案に反対し、首席随員である加藤寛治と共に全権・加藤友三郎に抵抗したが、条約は締結された。 12月1日、慣例では少将が補職される軍令部第一班長(作戦部長)に大佐で就任した。日本海軍の作戦指導書海戦要務令の作成に携わって対米作戦の改善を進め、対米作戦の完成者との評価もある。後に、軍縮条約の影響による索敵・漸減・決戦構想について根本的な疑問を示し、高木惣吉は末次の研究の深さに感銘を受けている。また海軍艦艇は重武装のため友鶴事件を引き起こしているが、末次は事前にこの重武装を戒める警告を発していた。
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