軍令第1号までの道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/05 04:57 UTC 版)
ドイツ軍制を模倣した山縣有朋陸軍卿による明治11年(1878年)12月5日公布の太政官達第50号『参謀本部条例』以降、国務から参謀本部が独立した(太政官達は国家主権者であった明治天皇に裁可された国家最高の法令であったのでその後の勅令にほぼ相当した)。 明治19年(1886年)勅令第1号の『公文式』では、勅令は閣議を経て後、全て内閣総理大臣から天皇に一般上奏した(第2条)。裁可後、必ず内閣総理大臣の副署を要した(第3条)。 だが明治22年(1889年)勅令第139号改正『公文式』で第3条は改正され、省の専任事務に属する勅令については主任大臣の副署だけでよく、内閣総理大臣の副署は要しないとした。但し一般行政事務に関わる勅令は内閣総理大臣と主任大臣がともに副署するとした。 他方軍事の勅令すなわち帷幄上奏勅令は、『公文式』があるにも関わらず統帥権の独立上慣行として、閣議を経ず天皇へ直接陸軍大臣が帷幄上奏し裁可を得て、その後陸軍大臣の副署で成立していた。以上は日露戦争においても有効であった。 日露戦争後も、勅令は首相だけが一般上奏し、帷幄上奏勅令は陸軍大臣が帷幄上奏するのは以前と同じであった。だが明治40年(1907年)1月31日、帝室制度調査局の立案で公布された勅令第6号『公式令』第7条で、天皇裁可後の帷幄上奏勅令を含む全ての勅令に内閣総理大臣の副署を要するとした。このため軍部には従来どおり、陸軍大臣の副署だけという帷幄上奏勅令の方式の維持が必要になった。
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