軍令部次長とは? わかりやすく解説

軍令部次長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/01 14:17 UTC 版)

小沢治三郎」の記事における「軍令部次長」の解説

1944年昭和19年11月18日、軍令部次長兼海大学校長。 12月小沢発案PX作戦英語版)が進められる細菌保有するネズミ人口密集する米本土西岸ばらまき生物災害引き起こす作戦であった航空機2機を搭載する伊四〇〇型潜水艦使用する計画海軍細菌研究がなかったため陸軍石井四郎軍医中将協力要請し陸海共同計画となり、人体実験を含む研究進められた。翌年3月26日海軍上層部決行合意したが、陸軍参謀総長梅津美治郎大将が「アメリカ対す細菌戦全人類に対す戦争発展する」と反対したため実行はされなかった。 1945年昭和20年2月第五航空艦隊編制から現地部隊任せていた特攻作戦軍令部指導するようになった第五航空艦隊長官宇垣纏中将全力攻撃行い中央ではやりすぎ中止させるべきという議が起こったが、小沢はやりかかったものをそんなことを言って止めるものにあらずと制肘を加えた3月8日中央の会議海軍24トン船舶使用陸軍認めたが、3月13日小沢は「食糧輸送船舶を含みかつ陸軍使用影響甚大海軍特攻計画にも影響与えることになるので同意できない」と異議申し入れた4月戦艦「大和」の海上特攻について事前に連合艦隊参謀神重徳許可取りに来た際に軍令部第一部長富岡定俊燃料がないと反対し、軍令部総長及川古志郎黙って聞いていたが、小沢は「連合艦隊長官そうしたいという決意ならよかろう」と直接許可与えた小沢は「全般空気よりして、その当時今日も当然と思う。多少成算はあった。次長たりし僕に一番の責任あり」という。

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軍令部次長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/08 17:46 UTC 版)

大西瀧治郎」の記事における「軍令部次長」の解説

1945年5月19日、軍令部次長に着任海軍大学校甲種卒業者ではない大西着任する異例の人事であった大西抜擢したのは海軍大臣米内光政であったこの人事は本土決戦前の終戦目論んでいた講和派の米内が、徹底抗戦派の大西抜擢したのは、本土決戦賭けている陸軍に対して海軍も本気であると見せかける意図と、大西実戦部隊指揮官のままにしておくと、終戦の際に何をするかわからないという危惧から部隊直接命令することができない軍令部次長にするという意味合いがあったとする意見もある。 軍令部での大西機帆船での逆上構想推進していた。富岡定俊少将によれば軍令部では大西だけが熱心であったという。 この時期B-29無差別爆撃対し日本迎撃戦闘機の不足、レーダー性能不足、高射砲射程外で対応策がなかった。そこで大西はその根拠地であるマリアナ基地B-29焼き討ちする作戦として剣号作戦提案した陸軍空挺特攻義烈空挺隊という先例もあった。計画は、爆撃終えて帰投するB-29追尾し、マリアナ基地続いて着陸敢行するもので、米軍対空砲火友軍機があるので攻撃できないので着陸可能になるという考えだった。その後特攻隊員オートバイ分乗して飛行場着陸したばかりのB-29爆弾突き刺すという案で、軍令部はこれを採用した土肥一夫中佐は「大西中将着想奇抜さには、軍令部員も誰一人、舌をまかぬものはなかった」と回想する大西着想で「棒付爆弾」と呼称された吸着盤のある時限式の爆弾開発されていた。作戦準備着々と進んで広島市への原子爆弾投下があった8月6日小沢大西らが三沢基地訪れて剣号作戦実戦的演習視察し大西らはその出来満足している。 しかし、義烈空挺隊から被った損害日本軍による空挺特攻作戦警戒していたアメリカ軍は、日本軍空挺特攻作戦準備進んでいるという情報を掴むと、三沢基地8月9日10日2日わたって艦載機猛爆撃した。海軍呉鎮守府第101特別陸戦隊陸軍第1挺進集団混成編成された第1、第2剣部隊サイパン島テニアン島空輸する予定であった一式陸上攻撃機は、巧妙にカムフラージュしていたにも関わらずアメリカ軍艦載機陸攻のみを狙い撃つ緻密な爆撃18機が完全撃破、7機が損傷させられ壊滅状態となった輸送部隊壊滅により作戦延期余儀なくされ、終戦まで決行することはできなかった。 終戦間近になったころ、大西は妻淑恵に「戦国時代には、どこの領主もみずから出陣し陣頭立っておるよ。日露戦争のときも、明治大帝広島大本営お出ましになり、親しく戦局をみそなわされている。それがいま、今上陛下女官かこまれて、今日お家庭的な生活を営まれている。ここのところは、ひとつ陛下御自身お出ましになってもらわんと困るのだがなぁ」と漏らしている。大西昭和天皇皇居の外の大本営陣頭指揮を執るべきと考えており、戦死した特攻隊員対す責任感から、「国を以て斃るる精神」を持って天皇もろとも日本民族2,000万人降伏せずに死ぬまで戦うべきと考えてたとする意見もある。 大西豊田副武軍令部総長支えて戦争継続会議訴えた大西軍令部会議をひらき、御前会議をなるべくひき延ばし和平派説得する工作をたてた。その計画では、大西高松宮宣仁親王海軍大佐)に会い米内光政海軍大臣説得依頼土肥一夫中佐永野修身元帥を、富岡定俊第一部長は及川古志郎大将を、大前敏一第一課長は野村直邦大将近藤信竹大将説得するよう割当決めた8月9日最高戦争指導会議現れ徹底抗戦訴える。12日豊田陸軍梅津美治郎参謀総長とともにポツダム宣言受諾反対奏上すると、米内海軍大臣豊田大西呼び出した米内今まで見たとがないような憤怒表情で「軍令部行動はなっておらない意見があるなら、大臣直接申出て来たらよいではないか最高戦争指導会議9日)に、招かれもせぬのに不謹慎な態度入って来るなんていうことは、実にみっともない。そんなことは止めろ」となどと激しく叱責し豊田硬直したのような不動姿勢聞き大西は首をうなだれて涙を流して詫びた米内激しく叱責され豊田大西であったが、その後終戦引き延ばし工作奔走して8月13日御前会議出席前の外務大臣東郷茂徳引き留めると、大西は「われわれは戦争に勝つための方策陛下奉呈して、終戦の御決定考えなおしてくださるようお願いなければなりません」「われわれが特攻2000万人の命を犠牲にする覚悟を決めるならば、勝利はわれわれのものとなるはずです」と主張したが、東郷は「われわれが真に勝利を得る、なんらかの希望があるのならば、誰もポツダム宣言受諾することを瞬時考えないであろう」と否定している。その後大西諦めず内閣書記官長迫水久常のもとにも現れ、「私たち軍人は、この4、5年間全力尽くして戦ったように思いますが、昨日あたりから今日にかけての真剣さに比べれば、まだ甘かったようです。この気持ちで、なお1か月間戦を続ければ、きっといい知恵が浮かぶと思うんです」「戦争続けるための方法を何か見つけることはできませんか」と訴えた大西は、御前会議が行われている宮中防空壕にも出向き部屋の外から「陛下おねがいでございます」「われわれ海軍至っておりませなんだ。まだ、頭の使い方足りませんでした。あと5、6か月、ご猶予をねがえませんか海軍新し考えを出すでありましょうおねがいでございます」と何度も呼び掛けている。 大西訴えむなしくポツダム宣言受諾聖断下った昭和天皇重臣らは部屋出て行ったが、大西いつまで椅子座っており、米内が肩を叩いて小さく頷いただけであったその後児玉のもとを訪れ、しばらく児玉御前会議の話をしてから軍令部次長の官舎帰ったが、児玉大西総毛立った表情見て「死ぬ気だな」と感じたという。そのあと矢次一夫宅を訪れ特攻開始以降自重していた酒を酌み交わしたが、矢次が大西決意感じて思いとどまるよう説得したに対して大西は「俺はあんなに多く青年死なせてしまった。俺のような奴は無間地獄墜ちるべきだが、地獄のほうが入れてはくれんだろうな」と答えている。 1945年昭和20年8月15日玉音放送流れた大西海軍省中庭で、米内豊田以下海軍中枢部と一緒に並んで玉音放送聞いたが、大西の隣にいた高木惣吉少将大西ただならぬ決意感じている。

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