軍令部次長
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1944年(昭和19年)11月18日、軍令部次長兼海軍大学校長。 12月、小沢の発案でPX作戦(英語版)が進められる。細菌を保有するネズミや蚊を人口が密集する米本土西岸にばらまき生物災害を引き起こす作戦であった。航空機2機を搭載する伊四〇〇型潜水艦を使用する計画で海軍に細菌研究がなかったため陸軍の石井四郎軍医中将の協力を要請し陸海の共同計画となり、人体実験を含む研究が進められた。翌年3月26日、海軍上層部は決行に合意したが、陸軍参謀総長・梅津美治郎大将が「アメリカに対する細菌戦は全人類に対する戦争に発展する」と反対したため実行はされなかった。 1945年(昭和20年)2月、第五航空艦隊編制から現地部隊に任せていた特攻作戦を軍令部も指導するようになった。第五航空艦隊長官・宇垣纏中将は全力攻撃を行い、中央ではやりすぎ、中止させるべきという議が起こったが、小沢はやりかかったものをそんなことを言って止めるものにあらずと制肘を加えた。3月8日、中央の会議で海軍は24万トンの船舶使用を陸軍に認めたが、3月13日に小沢は「食糧輸送船舶を含みかつ陸軍使用の影響は甚大、海軍特攻計画にも影響を与えることになるので同意できない」と異議を申し入れた。 4月の戦艦「大和」の海上特攻について事前に連合艦隊参謀・神重徳が許可を取りに来た際に軍令部第一部長・富岡定俊は燃料がないと反対し、軍令部総長・及川古志郎は黙って聞いていたが、小沢は「連合艦隊長官がそうしたいという決意ならよかろう」と直接許可を与えた。小沢は「全般の空気よりして、その当時も今日も当然と思う。多少の成算はあった。次長たりし僕に一番の責任あり」という。
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軍令部次長
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1945年5月19日、軍令部次長に着任。海軍大学校甲種卒業者ではない大西が着任する異例の人事であった。大西を抜擢したのは海軍大臣の米内光政であった。この人事は本土決戦前の終戦を目論んでいた講和派の米内が、徹底抗戦派の大西を抜擢したのは、本土決戦に賭けている陸軍に対して海軍も本気であると見せかける意図と、大西を実戦部隊の指揮官のままにしておくと、終戦の際に何をするかわからないという危惧から部隊に直接命令することができない軍令部次長にするという意味合いがあったとする意見もある。 軍令部での大西は機帆船での逆上陸構想を推進していた。富岡定俊少将によれば軍令部では大西だけが熱心であったという。 この時期、B-29の無差別爆撃に対し、日本は迎撃戦闘機の不足、レーダーの性能不足、高射砲も射程外で対応策がなかった。そこで大西はその根拠地であるマリアナの基地でB-29を焼き討ちする作戦として剣号作戦を提案した。陸軍の空挺特攻隊義烈空挺隊という先例もあった。計画は、爆撃を終えて帰投するB-29を追尾し、マリアナの基地に続いて着陸を敢行するもので、米軍の対空砲火も友軍機があるので攻撃できないので着陸は可能になるという考えだった。その後、特攻隊員がオートバイに分乗して飛行場で着陸したばかりのB-29に爆弾を突き刺すという案で、軍令部はこれを採用した。土肥一夫中佐は「大西中将の着想の奇抜さには、軍令部員も誰一人、舌をまかぬものはなかった」と回想する。大西の着想で「棒付爆弾」と呼称された吸着盤のある時限式の爆弾も開発されていた。作戦準備は着々と進んで、広島市への原子爆弾投下があった8月6日、小沢と大西らが三沢基地を訪れて、剣号作戦の実戦的演習を視察し、大西らはその出来に満足している。 しかし、義烈空挺隊から被った損害で日本軍による空挺特攻作戦を警戒していたアメリカ軍は、日本軍の空挺特攻作戦の準備が進んでいるという情報を掴むと、三沢基地を8月9日と10日の2日にわたって艦載機で猛爆撃した。海軍呉鎮守府第101特別陸戦隊と陸軍第1挺進集団の混成で編成された第1、第2剣部隊をサイパン島とテニアン島に空輸する予定であった一式陸上攻撃機は、巧妙にカムフラージュしていたにも関わらず、アメリカ軍艦載機の陸攻のみを狙い撃つ緻密な爆撃で18機が完全撃破、7機が損傷させられて壊滅状態となった。輸送部隊の壊滅により作戦は延期を余儀なくされ、終戦まで決行することはできなかった。 終戦が間近になったころ、大西は妻淑恵に「戦国時代には、どこの領主もみずから出陣して陣頭に立っておるよ。日露戦争のときも、明治大帝は広島の大本営もお出ましになり、親しく戦局をみそなわされている。それがいま、今上陛下は女官にかこまれて、今日なお家庭的な生活を営まれている。ここのところは、ひとつ陛下御自身にお出ましになってもらわんと困るのだがなぁ」と漏らしている。大西は昭和天皇が皇居の外の大本営で陣頭指揮を執るべきと考えており、戦死した特攻隊員に対する責任感から、「国を以て斃るる精神」を持って、天皇もろとも日本民族2,000万人が降伏せずに死ぬまで戦うべきと考えていたとする意見もある。 大西は豊田副武軍令部総長を支えて戦争継続を会議で訴えた。大西は軍令部で会議をひらき、御前会議をなるべくひき延ばし、和平派を説得する工作をたてた。その計画では、大西は高松宮宣仁親王(海軍大佐)に会い米内光政海軍大臣の説得を依頼、土肥一夫中佐は永野修身元帥を、富岡定俊第一部長は及川古志郎大将を、大前敏一第一課長は野村直邦大将と近藤信竹大将を説得するよう割当を決めた。 8月9日、最高戦争指導会議に現れて徹底抗戦を訴える。12日、豊田が陸軍の梅津美治郎参謀総長とともにポツダム宣言受諾反対を奏上すると、米内海軍大臣は豊田と大西を呼び出した。米内は今まで見たことがないような憤怒の表情で「軍令部の行動はなっておらない。意見があるなら、大臣に直接申出て来たらよいではないか。最高戦争指導会議(9日)に、招かれもせぬのに不謹慎な態度で入って来るなんていうことは、実にみっともない。そんなことは止めろ」となどと激しく叱責し、豊田は硬直したかのような不動の姿勢で聞き、大西は首をうなだれて涙を流して詫びた。 米内に激しく叱責された豊田と大西であったが、その後も終戦引き延ばし工作に奔走して、8月13日、御前会議出席前の外務大臣東郷茂徳を引き留めると、大西は「われわれは戦争に勝つための方策を陛下に奉呈して、終戦の御決定を考えなおしてくださるようにお願いしなければなりません」「われわれが特攻で2000万人の命を犠牲にする覚悟を決めるならば、勝利はわれわれのものとなるはずです」と主張したが、東郷は「われわれが真に勝利を得る、なんらかの希望があるのならば、誰もポツダム宣言を受諾することを瞬時も考えないであろう」と否定している。その後も大西は諦めず、内閣書記官長迫水久常のもとにも現れ、「私たち軍人は、この4、5年間、全力を尽くして戦ったように思いますが、昨日あたりから今日にかけての真剣さに比べれば、まだ甘かったようです。この気持ちで、なお1か月間戦を続ければ、きっといい知恵が浮かぶと思うんです」「戦争を続けるための方法を何か見つけることはできませんか」と訴えた。大西は、御前会議が行われている宮中の防空壕にも出向き、部屋の外から「陛下おねがいでございます」「われわれ海軍は至っておりませなんだ。まだ、頭の使い方が足りませんでした。あと5、6か月、ご猶予をねがえませんか。海軍は新しい考えを出すでありましょう。おねがいでございます」と何度も呼び掛けている。 大西の訴えむなしく、ポツダム宣言受諾の聖断は下った。昭和天皇や重臣らは部屋を出て行ったが、大西はいつまでも椅子に座っており、米内が肩を叩いても小さく頷いただけであった。その後、児玉のもとを訪れ、しばらく児玉に御前会議の話をしてから軍令部次長の官舎に帰ったが、児玉は大西の総毛立った表情を見て「死ぬ気だな」と感じたという。そのあと、矢次一夫宅を訪れ、特攻開始以降自重していた酒を酌み交わしたが、矢次が大西の決意を感じて、思いとどまるよう説得したのに対して大西は「俺はあんなにも多くの青年を死なせてしまった。俺のような奴は無間地獄に墜ちるべきだが、地獄のほうが入れてはくれんだろうな」と答えている。 1945年(昭和20年)8月15日、玉音放送が流れた。大西は海軍省の中庭で、米内や豊田以下海軍中枢部と一緒に並んで玉音放送を聞いたが、大西の隣にいた高木惣吉少将は大西のただならぬ決意を感じている。
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