軍令部編成の改定
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1932年(昭和7年)5月、寺島は教育局長兼軍務局長として海軍軍政の中枢を預かることとなった(6月より軍務局長専任)。寺島の軍務局長時代は五・一五事件の処理が行われたほか軍令部から海軍省に対し軍令部条令及び省部互渉規定改定案の商議がなされる。この商議は唐突なものではなく、軍令部の権限拡大を目指した動きは、加藤友三郎、村上格一の海相在任時からみられる。しかし島村速雄部長、佐藤鉄太郎次長時代、山下源太郎部長、加藤寛治次長、堀内三郎次長時代の試みは実現していなかった。なお軍令部の権限拡大を要求した理由に軍部大臣に文官が就任した場合への懸念があった。昭和期になると1930年(昭和5年)のロンドン海軍軍縮会議に際して統帥権干犯問題が起き、軍令部は憲法11条、12条につき陸軍と同様の公式見解をまとめ、内閣法制局の11条解釈「統帥権に付ては国務大臣は輔弼の責に任ぜず 但し・・・其の国務に関する範囲に於ては 国務大臣は之に参画し輔弼の責に任ず」に対し、但し書き以下の削除を求めた。海軍省は反対し、日本は国家として結論を出せないままであった。海軍は軍事参議官会議で、兵力量は海相と軍令部長の「意見の一致しあるべきものとす」と決議する。ロンドン会議後の人事面では東郷の推薦で、軍令部寄りの考えを持っていた伏見宮博恭王が軍事参議官会議の決議を得て海軍軍令部長に就任する。前任の海軍軍令部長谷口尚真はロンドン会議後に辞任した加藤寛治の後任者で、退任に抵抗を示している。 こうして皇族をトップとした軍令部はまず戦時大本営編成、戦時大本営勤務令の改定に成功する。これは参謀本部に比べて小さかった軍令部の戦時における権限を拡大したもので、松田千秋が軍令部側の主務者である。しかしこの改定は平時には影響せず限定的なものであった。引き続き軍令部は岡田為次を主務者とする改定案を作成し、軍令部編成の強化を図った。寺島軍務局長ら海軍省側は抵抗したが、高橋三吉次長と岡田海相の会談は喧嘩別れに近い状態で、岡田の「見たという印」のサインをもって海軍軍令部長の権限で発令された。海軍省は増員された定員に配員を行わずに抵抗を続けたが、高橋や伏見宮は阿武清人事局長に談じ込み、新設の軍令部第四班長へ配員が実施された。
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