寺島健
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寺島 健(てらしま けん[3]、1882年(明治15年)9月23日 - 1972年(昭和47年)10月30日)は、日本の海軍軍人、政治家。海軍中将で予備役となったのち、東條内閣で逓信大臣、鉄道大臣を務めた。
- ^ 日清戦争を連合艦隊旗艦「松島」艦長として戦った海軍中将(『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』)。
- ^ 両名はお互いの葬儀委員長を務める約束を交わしており、長谷川が没した際、寺島はその約束を果たした。
- ^ 航海科を専攻する士官用の専門課程。
- ^ この時期の海大については不明であるが、海大で好成績を得るには教官の意に逆らうことは不利であった(吉田俊雄『海軍参謀』)。海大首脳の機嫌を損ねたため席次を引き下げられた者がいたことは、教官経験者の高木惣吉も自身の体験として書き記している(『自伝的日本海軍始末記』)。
- ^ 部隊人員の人選は加藤友三郎海相が行った。なお「鹿島」艦長の小山武は砲術出身者、「香取」航海長雪下勝美は海大専修学生の首席卒業生である。参謀には住山徳太郎、阿部弘毅、宇垣完爾もいた。
- ^ 寺島は加藤友三郎や財部の軍部大臣は武官が適当との考え方に賛成であった。人事権を有する大臣は武官でなければ、人材評価ができないと考えていたためである。
- ^ 加藤寛治や末次信正第一班長(作戦部長)は改正実現は難しいと述べていた。加藤友三郎海相は佐藤次長に対し在任4か月で転任処置をとった。
- ^ 岡田啓介、加藤寛治、安保清種、山本英輔の四名。岡田は伏見宮に傷をつけないよう気を付けるということで賛成したと語っている。
- ^ 伏見宮の海軍軍令部長就任は陸軍の閑院宮載仁親王参謀総長に対抗する意味があるとされるが、伏見宮自身は否定している。なお元老西園寺公望は、皇族をトップに据えることに憂慮を示していた。
- ^ 南雲の交渉態度は脅迫と伝えられるほど強硬であったが、嶋田繁太郎の場合は穏和なものであった。井上は嶋田について「理屈がわかった」と語っている。
- ^ 金沢正夫は、この書類の作成にあたった当時の軍令部第一班長直属部員である。書類提出を命じられた大角海相と鈴木貫太郎侍従長が話し合い、その場で大角の意向を確認しつつ作成した。この証言をした当時の海相秘書官矢牧章は、大角に随行しこの場に居合わせていた。なお『井上成美』と『金沢正夫伝』では、作成した書類の受領日が異なる。
- ^ 伏見宮は井上の姿勢を気に入り、ポストに配慮するよう指示している。二・二六事件で井上横須賀鎮守府参謀長は麾下の艦船を東京湾に急行させようとしたが、軍令部によって差し止められた。この改正によって海軍省から軍令部へ警備派兵の権限が委譲されていたためである。
- ^ 艦隊派の影響を受けた東郷平八郎は谷口の姿勢にあきたらず、大角らを前に谷口を面罵した(『歴史のなかの日本海軍』105頁)。第三次近衛内閣の海相であった及川古志郎は、海軍は戦えないと明言できなかった理由にこの出来事を挙げている。
- ^ 山下と加藤寛治は友人関係にあった。
- ^ 『寺島健伝』では6月15日。
- ^ 『寺島健伝』8頁
- ^ a b 『大衆人事録 東京篇』(第13版)「寺島健」
- ^ 秦 2005, p. 230, 第1部 主要陸海軍人の履歴-海軍-寺島健
- ^ 『寺島健伝』9頁
- ^ 『寺島健伝』10頁
- ^ 鎌田芳朗『海軍兵学校物語』(原書房)、146頁
- ^ 『寺島健伝』273頁
- ^ 『寺島健伝』では約2500名。
- ^ 『海軍兵学校物語』214頁
- ^ a b 『海軍兵学校沿革』「明治三十三年十二月十七日」
- ^ 『海軍兵学校沿革』「明治三十六年十二月十四日」
- ^ 『寺島健伝』19頁
- ^ 『長谷川清傳』序16頁
- ^ 『寺島健伝』39頁
- ^ 『寺島健伝』34頁
- ^ 『寺島健伝』67頁
- ^ 『寺島健伝』154頁
- ^ 『海軍と日本』83頁
- ^ 『寺島健伝』65-66頁
- ^ 『寺島健伝』68頁
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』巻末附録
- ^ 『寺島健伝』74頁
- ^ 『寺島健伝』82頁
- ^ 『寺島健伝』83頁
- ^ 『寺島健伝』85頁
- ^ 『寺島健伝』105頁
- ^ 千早正隆『日本海軍の驕り症候群(上)』(文春文庫)、134頁
- ^ 『寺島健伝』113-115頁
- ^ 『寺島健伝』117頁
- ^ 実松譲『最後の砦 提督吉田善吾の生涯』(光人社)、176-177頁
- ^ 『寺島健伝』301-302頁
- ^ 『寺島健伝』107頁
- ^ a b 『寺島健伝』129頁
- ^ a b 『歴史のなかの日本海軍』49-50頁
- ^ 『海軍を斬る』、99-100頁
- ^ 『寺島健伝』271頁
- ^ 『寺島健伝』119頁
- ^ 半藤一利、秦郁彦、戸高一成、横山恵一『歴代海軍大将全覧』(中公新書ラクレ)、233頁
- ^ 『歴史のなかの日本海軍』52-53頁
- ^ 『歴史のなかの日本海軍』53頁
- ^ 『歴史のなかの日本海軍』54-55頁
- ^ 『歴史のなかの日本海軍』55頁
- ^ 『山本五十六再考』59-60頁
- ^ 『歴史のなかの日本海軍』61頁
- ^ 『寺島健伝』137頁
- ^ 『歴史のなかの日本海軍』61-63頁
- ^ 『歴史のなかの日本海軍』66-67頁
- ^ 秦郁彦『昭和史を縦走する』(グラフ社)、52-72頁
- ^ 『山本五十六再考』32頁
- ^ 『歴史のなかの日本海軍』64-66頁
- ^ 『井上成美』143頁
- ^ 『井上成美伝』142-143頁
- ^ 『井上成美』資-99
- ^ 『歴史のなかの日本海軍』69頁
- ^ 『歴史のなかの日本海軍』68頁
- ^ 『寺島健伝』68-69頁
- ^ 『歴史のなかの日本海軍』70頁
- ^ 『歴史のなかの日本海軍』71頁
- ^ 『井上成美』145頁
- ^ 金沢正夫伝刊行会『金沢正夫伝』86-90頁
- ^ 『寺島健伝』289頁
- ^ 『寺島健伝』297-298頁
- ^ 『歴史のなかの日本海軍』70-71頁
- ^ 『井上成美』資-12
- ^ 実松譲『新版米内光政』(光人社)、110頁
- ^ 『井上成美』144頁
- ^ 『歴史のなかの日本海軍』105頁
- ^ 『日本の海軍(下)125頁』
- ^ 『寺島健伝』125頁
- ^ 『海軍を斬る』104頁
- ^ 『寺島健伝』158頁
- ^ 杉本健『海軍の昭和史』(文芸春秋)、29頁
- ^ 『寺島健伝』163頁
- ^ 『寺島健伝』198頁
- ^ 総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、665頁。NDLJP:1276156。
- ^ 『歴史の中の日本海軍』56頁
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、52頁。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、53頁。
- ^ 『官報』第6387号「叙任及辞令」1904年10月12日。
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