日本海海戦とは? わかりやすく解説

にほんかい‐かいせん【日本海海戦】

読み方:にほんかいかいせん

明治38年(1905)5月27日から翌日にかけて行われた日露戦争最大海戦日本海対馬(つしま)沖で、東郷平八郎司令長官率い連合艦隊が、ロシアバルチック艦隊壊滅的打撃与えた

日本海海戦の画像
日本海海戦の指揮が発せられた戦艦三笠艦橋

日本海海戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/15 06:36 UTC 版)

日本海海戦(にほんかいかいせん)は、日露戦争中の1905年明治38年)5月27日から5月28日にかけて、大日本帝国海軍連合艦隊ロシア帝国海軍が極東へ送った第2・第3太平洋艦隊によって日本海で行われた海戦である。




「日本海海戦」の続きの解説一覧

日本海海戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/03/14 16:03 UTC 版)

丁字戦法」の記事における「日本海海戦」の解説

日本側の戦史ではいわゆる東郷ターン」を、まずすれ違うかのように装い急に左折して敵の先頭を斜に圧迫した、と表現している。その後バルチック艦隊右折することで併航となったが、速度に勝る連合艦隊前方出て徐々に右折し敵の前方圧迫した圧迫避けるためにバルチック艦隊右折したが、最終的に連合艦隊は完全に敵の前に出て縦射加えたと書かれている。 これを丁字戦法認めかどうか意見割れている。戦法主眼は敵の先頭圧迫してその先頭に集中攻撃することであり、敵旗艦2隻を早期脱落させ丁字戦法成立しているという意見がある一方明らかに丁字となった場面無く丁字戦法ではないと意見もある。 「敵艦隊の進路を遮る」事が遂にできず通常の同航戦みられる様な「ハ」の字、若しくは「リ」の字に近い形で推移、完全な丁字実現しなかったという見方がある。また戦闘詳報各種一次資料黄海海戦であったという「丁字戦法行った」という記述が日本海海戦では無いことから、当事者たち自身は大回頭後に「丁字若しくは「イの字」の体勢出来たとは考えていない推測されるという意見がある。黄海海戦のものにある記述は「戦策の通りに」(極秘版のみ)と「丁字をえがかんと」(公刊版のみ)というものである一方、日本海海戦のものは「敵の頭を斜に圧迫」というものである。 なお半藤一利は海戦直後5月29日詳細な報告も無いまま軍令部よりマスメディアに対して「日本海海戦は丁字戦法勝てた」と虚偽発表がなされ、翌日紙面にそれが掲載されそれがそのまま世間浸透してしまったという説を唱えているが、実際に発表されたのは6月29日のことであり、6月30日朝日新聞掲載されている。

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日本海海戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/21 14:02 UTC 版)

インペラートル・ニコライ1世 (戦艦・初代)」の記事における「日本海海戦」の解説

日露戦争が始まると、インペラートル・ニコライ1世艦長V・V・スミルノーフ海軍大佐指揮下、再び太平洋方面派遣されることとなったインペラートル・ニコライ1世N・I・ネボガートフ海軍少将麾下第3太平洋艦隊第1分艦隊旗艦の任を授けられ2月3日リーバウ出港した。第1分艦隊は、沿岸防護装甲艦アドミラール・ウシャコーフ、アドミラール・セニャーヴィン、ゲネラール=アドミラール・アプラークシン、旧式装甲巡洋艦ウラジーミル・モノマフ、数隻の補助船舶から成っていた。第2分遣隊は、最新型艦隊装甲艦スラヴァと3 隻の旧式艦、すなわち艦隊装甲艦インペラートル・アレクサンドル2世装甲巡洋艦パーミャチ・アゾーヴァ、防護巡洋艦アドミラール・コルニーロフから編成される予定であった。しかし、建造であったスラヴァ完成が間に合わなかったことから、派遣中止された。 インドシナカムラン湾外で第2太平洋艦隊合流すると、その第3装甲艦隊の旗艦となった。ゲネラール=アドミラール・アプラークシン、アドミラール・セニャーヴィン、アドミラール・ウシャコーフが、引き続きインペラートル・ニコライ1世従ったしかしながら結果として日露戦争においてこの艦が果たした軍事上の役割最小のものであった1905年5月27日の日本海海戦に参加するも、主力艦隊の悲劇を救うのにほとんど何の寄与もしなかった。インペラートル・ニコライ1世戦闘日本艦隊装甲巡洋艦浅間および出雲損傷与えたが、その功績砲手力量によるというよりはむしろ、日本指揮官経験不足と戦術的無知によるものであった。彼らは、インペラートル・ニコライ1世射程限界を超えてネボガートフ提督率いロシア旧式艦隊接近したのである多くの人が、インペラートル・ニコライ1世ロシア海軍史上もっとも矛盾した艦であると呼んでいる。計画から運用に至るまで、この艦には許容しがたい欠陥付き天才的な決心具現していた。英雄的な遠征には、全艦隊引渡しという先例のない恥辱付いていた。ロシア艦隊中でもっとも旧式であったその主砲は、戦艦富士主砲塔装甲破孔穿つという、日本海海戦においてもっとも深刻な損傷日本艦に与えたのである

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日本海海戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 17:30 UTC 版)

上村彦之丞」の記事における「日本海海戦」の解説

「日本海海戦」も参照 日本海海戦では第2艦隊指揮した日本で最も古い学校として知られる足利学校には、日露戦争勝利を祝い明治39年12月22日孔子祭の際に東郷平八郎伊東祐亨とともに手植えした月桂樹残っている。

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日本海海戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 02:32 UTC 版)

対馬」の記事における「日本海海戦」の解説

1904年明治37年)には、日露戦争備え対馬海峡重要性から要港部司令官親補職となり、幕僚として、参謀長参謀副官機関長軍医長主計長配置された。また、バルチック艦隊から浅茅湾防衛するため、郷山・岳・多功崎・廻の各砲台建設着手した(廻砲台工事はのちに中止となった日露戦争における日本勝利を決定的なものとしたことで知られる日本海海戦は、海外では"Battle of Tsushima"(対馬戦い)の名称で知られている。実際にその名の通り竹敷港や尾崎港からは連合艦隊水雷艇出撃している。この海戦砲声対馬届いたといわれ、また、対馬の殿崎・茂木・琴などの住民は、海岸漂着した多くロシア兵救命救助おこない、宿や食糧与えている。 1920年大正9年)には対馬警備隊司令部改編対馬要塞司令部設置している。こうした対馬全島要塞化により昭和前期には対馬海峡全体防衛可能なほどであった。特に豊砲台には、1922年大正11年)のワシントン海軍軍縮条約により巡洋戦艦から航空母艦転用された「赤城」の40センチメートル連装砲塔が、竜ノ崎砲台には、戦艦「摂津」30センチメートル連装砲塔設置された。 太平洋戦争後期には豆酸にレーダー基地設けられ九州朝鮮半島の間を監視したまた、対馬九州呼子平戸対馬沖島対馬本州浜田の間に電波警戒機甲もうけられ通過する飛行機警戒あたった。なお、豊砲台跡地今日でも見学することができる。

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日本海海戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/14 09:28 UTC 版)

三六式無線機」の記事における「日本海海戦」の解説

1905年明治38年5月27日午前2時45分仮装巡洋艦信濃丸」(艦長成川揆海軍大佐)が北航する病院船オリョール」の灯火発見、更に接近し大艦隊の存在確認4時45分敵艦ラシキ煤煙見ユ」、続けて4時50分「敵ノ第二艦隊見ユ地点二〇三」との暗号電報送信し、この電報戦艦厳島」による中継受けて連合艦隊司令部座乗する旗艦三笠」へ到達した。これを受けて司令長官東郷平八郎大将艦隊出動下命、同艦より大本営あてに「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ撃沈 滅セントス。本日天気晴ナレドモ浪高シ」と、報告電報送信し戦闘開始された。戦闘中連合艦隊無線電信を有効利用した事は、戦闘有利な展開に大い寄与した(なおロシア艦隊側では日本側の無線通信存在確認しており、やはり装備していた大出力の無線機で、いわゆるジャミングと言われるような妨害行ったらどうか、という具申があったが、やるな、という命令があり行われなかった、という)。

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日本海海戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/04 08:50 UTC 版)

沖ノ島」の記事における「日本海海戦」の解説

1905年明治38年5月27日、沖津宮神官仕えていた佐藤五郎(1889~1974)が、樹上から日露戦争の日本海海戦の始終目撃している。彼は両艦隊乗組員以外で同海戦目撃した数少ない人物の一人であり、その子細は明治以来書き継がれている『沖津宮日誌』に記されている。

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日本海海戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/30 02:36 UTC 版)

東郷ターン」の記事における「日本海海戦」の解説

5月27日 早朝 日本海海戦当日秋山真之より東京へ電報敵艦見ユトノ警報二接シ 連合艦隊は直チニ出動 コレヲ撃滅セントス、本日天気晴朗ナレドモ波高シ」 「本日天気晴朗ナレドモ波高シ」というこの台詞、これは、機雷敷設する水雷艇波高により出撃出来ないという打電であった。 これにより連合艦隊は、「連結機雷」を諦めざるを得なくなってしまう。連合艦隊一切作戦持たず大国ロシアと戦うこととなった。 そんな時、さらに問題発生。この時の東郷作戦バルチック艦隊向けて前進し艦隊西側反転同航戦持ち込む戦法であったが、敵艦隊の位置測距ミスがあり連合艦隊バルチック艦隊正面出てしまった。この時、危険を避けて敵の西側へ転針すれば逃げられるかも知れなかった。しかし、東郷下した決断取舵東へ転針)であった。ここで取舵をすれば連合艦隊回頭終えるまで、敵の集中砲火浴びることになる。この時東郷は「たとえ三笠沈められようとも、バルチック艦隊絶対に逃がさない」という決断だったと伝えられている。 数々問題見舞われながら、艦隊勝利導いたのは、この捨て身の「東郷ターン」だったのである

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