にほんかい‐かいせん【日本海海戦】
日本海海戦
日本海海戦
日本海海戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/03/14 16:03 UTC 版)
日本側の戦史ではいわゆる「東郷ターン」を、まずすれ違うかのように装い急に左折して敵の先頭を斜に圧迫した、と表現している。その後バルチック艦隊が右折することで併航となったが、速度に勝る連合艦隊は前方に出て徐々に右折し敵の前方を圧迫した。圧迫を避けるためにバルチック艦隊も右折したが、最終的に連合艦隊は完全に敵の前に出て縦射を加えた、と書かれている。 これを丁字戦法と認めるかどうかは意見が割れている。戦法の主眼は敵の先頭を圧迫してその先頭に集中攻撃することであり、敵旗艦2隻を早期に脱落させ丁字戦法が成立しているという意見がある一方、明らかに丁字となった場面が無く丁字戦法ではないと意見もある。 「敵艦隊の進路を遮る」事が遂にできず通常の同航戦でみられる様な「ハ」の字、若しくは「リ」の字に近い形で推移、完全な丁字は実現しなかったという見方がある。また戦闘詳報や各種一次資料に黄海海戦であったという「丁字戦法を行った」という記述が日本海海戦では無いことから、当事者たち自身は大回頭後に「丁字」若しくは「イの字」の体勢が出来たとは考えていないと推測されるという意見がある。黄海海戦のものにある記述は「戦策の通りに」(極秘版のみ)と「丁字をえがかんと」(公刊版のみ)というものである一方、日本海海戦のものは「敵の頭を斜に圧迫」というものである。 なお半藤一利は海戦直後の5月29日、詳細な報告も無いまま軍令部よりマスメディアに対して「日本海海戦は丁字戦法で勝てた」と虚偽の発表がなされ、翌日の紙面にそれが掲載されそれがそのまま世間に浸透してしまったという説を唱えているが、実際に発表されたのは6月29日のことであり、6月30日の朝日新聞に掲載されている。
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日本海海戦
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「インペラートル・ニコライ1世 (戦艦・初代)」の記事における「日本海海戦」の解説
日露戦争が始まると、インペラートル・ニコライ1世は艦長V・V・スミルノーフ海軍大佐の指揮下、再び太平洋方面へ派遣されることとなった。インペラートル・ニコライ1世はN・I・ネボガートフ海軍少将麾下の第3太平洋艦隊第1分艦隊旗艦の任を授けられ、2月3日、リーバウを出港した。第1分艦隊は、沿岸防護装甲艦アドミラール・ウシャコーフ、アドミラール・セニャーヴィン、ゲネラール=アドミラール・アプラークシン、旧式装甲巡洋艦ウラジーミル・モノマフ、数隻の補助船舶から成っていた。第2分遣隊は、最新型の艦隊装甲艦スラヴァと3 隻の旧式艦、すなわち艦隊装甲艦インペラートル・アレクサンドル2世、装甲巡洋艦パーミャチ・アゾーヴァ、防護巡洋艦アドミラール・コルニーロフから編成される予定であった。しかし、建造中であったスラヴァの完成が間に合わなかったことから、派遣は中止された。 インドシナのカムラン湾外で第2太平洋艦隊と合流すると、その第3装甲艦隊の旗艦となった。ゲネラール=アドミラール・アプラークシン、アドミラール・セニャーヴィン、アドミラール・ウシャコーフが、引き続きインペラートル・ニコライ1世に従った。 しかしながら、結果として、日露戦争においてこの艦が果たした軍事上の役割は最小のものであった。1905年5月27日の日本海海戦に参加するも、主力艦隊の悲劇を救うのにほとんど何の寄与もしなかった。インペラートル・ニコライ1世は戦闘で日本艦隊の装甲巡洋艦浅間および出雲に損傷を与えたが、その功績は砲手の力量によるというよりはむしろ、日本側指揮官の経験不足と戦術的無知によるものであった。彼らは、インペラートル・ニコライ1世の射程限界を超えてネボガートフ提督率いるロシアの旧式艦隊へ接近したのである。 多くの人が、インペラートル・ニコライ1世をロシア海軍史上もっとも矛盾した艦であると呼んでいる。計画から運用に至るまで、この艦には許容しがたい欠陥付きの天才的な決心を具現していた。英雄的な遠征には、全艦隊の引渡しという先例のない恥辱が付いていた。ロシア艦隊の中でもっとも旧式であったその主砲は、戦艦富士の主砲塔装甲に破孔を穿つという、日本海海戦においてもっとも深刻な損傷を日本艦に与えたのである。
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日本海海戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 17:30 UTC 版)
「日本海海戦」も参照 日本海海戦では第2艦隊を指揮した。 日本で最も古い学校として知られる足利学校には、日露戦争の勝利を祝い、明治39年12月22日の孔子祭の際に東郷平八郎、伊東祐亨とともに手植えした月桂樹が残っている。
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日本海海戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 02:32 UTC 版)
1904年(明治37年)には、日露戦争に備え対馬海峡の重要性から要港部司令官が親補職となり、幕僚として、参謀長、参謀、副官、機関長、軍医長、主計長が配置された。また、バルチック艦隊から浅茅湾を防衛するため、郷山・樫岳・多功崎・廻の各砲台の建設に着手した(廻砲台の工事はのちに中止となった)日露戦争における日本の勝利を決定的なものとしたことで知られる日本海海戦は、海外では"Battle of Tsushima"(対馬の戦い)の名称で知られている。実際にその名の通り竹敷港や尾崎港からは連合艦隊の水雷艇が出撃している。この海戦の砲声は対馬に届いたといわれ、また、上対馬の殿崎・茂木・琴などの住民は、海岸に漂着した多くのロシア兵の救命救助をおこない、宿や食糧を与えている。 1920年(大正9年)には対馬警備隊司令部を改編し対馬要塞司令部を設置している。こうした対馬全島の要塞化により昭和前期には対馬海峡全体の防衛が可能なほどであった。特に豊砲台には、1922年(大正11年)のワシントン海軍軍縮条約により巡洋戦艦から航空母艦へ転用された「赤城」の40センチメートル連装砲塔が、竜ノ崎砲台には、戦艦「摂津」の30センチメートル連装砲塔が設置された。 太平洋戦争後期には豆酸にレーダー基地が設けられ九州と朝鮮半島の間を監視した。また、対馬と九州の呼子と平戸、対馬と沖島、対馬と本州浜田の間に電波警戒機甲がもうけられ、通過する飛行機の警戒にあたった。なお、豊砲台の跡地は今日でも見学することができる。
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日本海海戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/14 09:28 UTC 版)
1905年(明治38年)5月27日午前2時45分、仮装巡洋艦「信濃丸」(艦長成川揆海軍大佐)が北航する病院船「オリョール」の灯火を発見、更に接近し敵大艦隊の存在を確認、4時45分「敵艦隊ラシキ煤煙見ユ」、続けて4時50分「敵ノ第二艦隊見ユ地点二〇三」との暗号電報を送信し、この電報は戦艦「厳島」による中継を受けて連合艦隊司令部が座乗する旗艦「三笠」へ到達した。これを受けて司令長官東郷平八郎大将が艦隊の出動を下命、同艦より大本営あてに「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ撃沈 滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」と、報告の電報を送信し、戦闘が開始された。戦闘中も連合艦隊が無線電信を有効利用した事は、戦闘の有利な展開に大いに寄与した(なおロシア艦隊側では日本側の無線通信の存在は確認しており、やはり装備していた大出力の無線機で、いわゆるジャミングと言われるような妨害を行ったらどうか、という具申があったが、やるな、という命令があり行われなかった、という)。
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日本海海戦
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1905年(明治38年)5月27日、沖津宮の神官に仕えていた佐藤市五郎(1889~1974)が、樹上から日露戦争の日本海海戦の始終を目撃している。彼は両艦隊の乗組員以外で同海戦を目撃した数少ない人物の一人であり、その子細は明治以来書き継がれている『沖津宮日誌』に記されている。
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日本海海戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/30 02:36 UTC 版)
〈5月27日 早朝 日本海海戦当日〉秋山真之より東京へ電報「敵艦見ユトノ警報二接シ 連合艦隊は直チニ出動 コレヲ撃滅セントス、本日天気晴朗ナレドモ波高シ」 「本日天気晴朗ナレドモ波高シ」というこの台詞、これは、機雷を敷設する水雷艇が波高により出撃出来ないという打電であった。 これにより連合艦隊は、「連結機雷」を諦めざるを得なくなってしまう。連合艦隊は一切の作戦も持たずに大国ロシアと戦うこととなった。 そんな時、さらに問題が発生。この時の東郷の作戦はバルチック艦隊に向けて前進し、艦隊の西側で反転。同航戦に持ち込む戦法であったが、敵艦隊の位置の測距にミスがあり連合艦隊はバルチック艦隊の正面に出てしまった。この時、危険を避けて敵の西側へ転針すれば逃げられるかも知れなかった。しかし、東郷の下した決断は取舵(東へ転針)であった。ここで取舵をすれば連合艦隊が回頭を終えるまで、敵の集中砲火を浴びることになる。この時東郷は「たとえ三笠が沈められようとも、バルチック艦隊は絶対に逃がさない」という決断だったと伝えられている。 数々の問題に見舞われながら、艦隊を勝利に導いたのは、この捨て身の「東郷ターン」だったのである。
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