旅順港閉塞作戦
旅順港閉塞作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 07:43 UTC 版)
1904年の日露戦争では、第二回旅順口閉塞作戦で広瀬武夫の率いる閉塞船・福井丸指揮官附となった。同年3月27日、福井丸が旅順港口に接近し、まさに投錨自爆しようとすると同時に敵の水雷が命中し、船底がたちまち裂けて浸水、瞬時にして沈没した。広瀬は直ちに乗組員を端艇に移して点呼による人員確認をしたが、爆薬点火のために船艙へ降りた杉野の姿が無かった。「杉野! おらんか!? 返事しろ!」という広瀬の呼びかけにも答えはなく(唱歌「広瀬中佐」の中でも歌われている)、三度にわたる船内捜索でも見つからなかった。 広瀬は、端艇に移ろうとするときに敵の砲弾にあたって、一片の肉を残したまま戦死した。この報が伝えられるや、広瀬は中佐へ、杉野は上等兵曹から兵曹長に特進し、功六級金鵄勲章ならびに勲六等単光旭日章が追贈された。 その死は広瀬と共に顕彰され、万世橋駅前に広瀬と共に銅像が建てられた(戦後に撤去された)。他にも飛騨護国神社などに碑が建てられている他、文部省唱歌『廣瀬中佐』の題材ともなった。まだ、出生地である三重県鈴鹿市磯山駅近くにも碑が建てられている。
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旅順港閉塞作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/27 14:35 UTC 版)
旅順港閉塞作戦では二回目の作戦で広瀬武夫少佐の指揮の下使用された。このとき船には自沈用に、爆薬20キロと6インチ砲弾、セメントの塊などが積まれた。爆薬に点火しボートで退避する際、杉野孫七上等兵曹が行方不明になり、広瀬少佐が船内を三度捜索したが見つからず、広瀬少佐は退却した端艇上で砲弾の直撃を受け戦死する。他の戦死者は二等信号兵曹菅波政次と二等機関兵小池幸三郎。この後福井丸は引き揚げられ明治四十年に解体された。
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