林三子雄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/22 17:43 UTC 版)
|
|
---|---|
![]() |
|
生誕 | 1864年12月13日(元治元年11月15日) |
死没 | 1904年5月26日(39歳没) |
所属組織 | ![]() |
軍歴 | 1886年 - 1904年 |
最終階級 | ![]() |
林 三子雄(はやし みねお、1864年12月13日(元治元年11月15日) - 1904年(明治37年)5月26日)は、日本の海軍軍人。日露戦争に「鳥海」艦長として出征し、第三回旅順港閉塞作戦総指揮官を務めた海軍大佐である。南山攻撃援護作戦で戦死。従五位勲三等功四級。
生涯
- 略歴
大坂南河内郡狭山村(現:大阪狭山市)出身。父は河内狭山藩士・林伊織[1]。海軍兵学校12期。席次は入校時次席、卒業時3番[2]。同期に有馬良橘、山屋他人、江頭安太郎などがいる。1894年(明治24年)大尉となり、「高雄」航海長を経て海軍大学校甲号学生(5期)を卒業。志摩清直、黒井悌次郎は同期生である。「秋津洲」航海長として日清戦争に出征。艦長・上村彦之丞のもと黄海海戦を戦った。戦後海兵教官を2年務めたのち、独留学を命じられる。同時に留学を命じられたのは秋山真之(米)、村上格一(仏)、財部彪(英)、広瀬武夫(露)である。留学期間は三年半に及び、在独中に中佐に進級している。帰国後「千代田」副長、「初瀬」航海長、横須賀海兵団副長、「天城」艦長を歴任。「鳥海」艦長に就任し、日露戦争に出征。第三回旅順閉塞作戦総指揮官を務める。第二軍の南山攻撃援護のため、「鳥海」は「筑紫」と南山砲台の砲撃に赴くが、ロシア軍の反撃により林は戦死した。
- 第三回旅順閉塞作戦[3]
1904年5月2日、第三回閉塞作戦総指揮官に任じられた林は「新発田丸」に乗船し指揮をとった。作戦目的は閉塞船12隻をもって旅順港を封鎖することにあり、参加人員には「新発田丸」指揮官附・中村良三、「釜山丸」指揮官大角岑生、「愛国丸」指揮官犬塚太郎などが含まれていた。1隻は機関故障のため離脱し、林は他の11隻及び収容隊を率いて旅順港に向かう。しかし天候険悪のため林は中止を決断。「赤城」にその旨を伝達するよう伝え反転した。しかし悪天候に妨げられ林の意図は伝わらず、閉塞船8隻及び収容隊は攻撃に向かった。5月3日午前零時、林は後続船が少ないことから反転し攻撃に向かったが、舵機故障のため目的を達することはできずに終わる。第三次閉塞作戦で攻撃に向かった八隻の乗員158名は、戦死、行方不明、負傷及びロシア軍の捕虜となったもの合計115名に及び、無傷で生還した者は43名であった。
栄典
- 位階
- 1891年(明治24年)1月29日 - 正八位[4]
- 1892年(明治25年)3月23日 - 正七位[5]
- 1897年(明治30年)5月31日 - 従六位[6]
- 1899年(明治32年)11月6日 - 正六位[7]
- 1904年(明治37年)5月26日 - 従五位[8]
- 勲章等
- 1895年(明治28年)11月18日 - 勲六等瑞宝章・功五級金鵄勲章[9]・明治二十七八年従軍記章[10]
- 1900年(明治33年)11月30日 - 勲五等瑞宝章[11]
- 1904年(明治37年)5月26日 - 勲三等旭日中綬章・功四級金鵄勲章[12]
- 1905年(明治38年)4月24日 - 靖国神社合祀[13]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 明治三十七八年従軍記章[14]
脚注
- ^ 『日露戦争名誉列伝』「林三子雄君他諸将列伝」
- ^ 『海軍兵学校物語』「ハンモックナンバー」
- ^ 「第2編 旅順口及ひ仁川の敵艦隊に対する作戦/第10章 旅順口第3回閉塞」
- ^ 『官報』第2276号「叙任及辞令」1891年2月3日。
- ^ 『官報』第2617号「叙任及辞令」1892年3月24日。
- ^ 『官報』第4172号「叙任及辞令」1897年6月1日。
- ^ 『官報』第4906号「叙任及辞令」1899年11月7日。
- ^ 『官報』第7049号「叙任及辞令」1906年12月26日。
- ^ 『官報』第3727号「叙任及辞令」1895年11月29日。
- ^ 『官報』第3838号・付録「辞令」1896年4月18日。
- ^ 『官報』第5226号「叙任及辞令」1900年12月1日。
- ^ 『官報』第6272号「叙任及辞令」1904年5月30日。
- ^ 『官報』第6541号「告示 - 海軍省報告第15号」1905年4月24日
- ^ 『官報』第7171号・付録「辞令」1907年5月28日。
参考文献
- 「明治28年1月1日 現在艦船艇其他配員表」 アジア歴史資料センター Ref.C08040637100
- 「『極秘 明治37.8年海戦史 第1部 戦紀 巻4』「第2編 旅順口及ひ仁川の敵艦隊に対する作戦/第10章 旅順口第3回閉塞」」 アジア歴史資料センター Ref.C05110041500
- 「第14号 筑紫支隊南山砲撃死傷人名表」 アジア歴史資料センター Ref.C05110063400
- 池田清『日本の海軍』(上) 朝日ソノラマ ISBN 4-257-17083-2
- 井上秋剣編『日露戦史名誉列伝』駿々堂 、1906年
- 鎌田芳朗『海軍兵学校物語』原書房、1979年
- 外山操編『日本陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版 ISBN 4-8295-0003-4
- 秦郁彦『日本陸海軍総合辞典』東京大学出版会
- 明治百年史叢書第74巻『海軍兵学校沿革』原書房
林三子雄(はやし みねお)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 21:22 UTC 版)
「坂の上の雲 (テレビドラマ)」の記事における「林三子雄(はやし みねお)」の解説
※この「林三子雄(はやし みねお)」の解説は、「坂の上の雲 (テレビドラマ)」の解説の一部です。
「林三子雄(はやし みねお)」を含む「坂の上の雲 (テレビドラマ)」の記事については、「坂の上の雲 (テレビドラマ)」の概要を参照ください。
- 林三子雄のページへのリンク