南山の戦いとは? わかりやすく解説

南山の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/31 13:45 UTC 版)

南山の戦い

戦争日露戦争
年月日1904年5月25日 - 5月26日
場所遼東半島旅順北方
結果:日本軍の戦略目的達成
交戦勢力
大日本帝国 ロシア帝国
指導者・指揮官
奥保鞏 アナトーリイ・ステッセリ
アレクサンドル・フォーク
戦力
約38,500人 約17,000人
損害
死傷者約4,300名 死傷者約1,400名
日露戦争
当時の地図
南山の戦いの絵葉書
「南山之役我軍乗迅雷風雨突進敵壘」小林清親画(1904年4月)

南山の戦い(なんざんのたたかい、ナンシャンのたたかい)は、遼東半島金州城の南近郊の南山と呼ばれる所で1904年に行われた、ロシア陸軍日本陸海軍の戦い。ロシア軍は機関銃などを装備し、南山はある程度要塞化されていたため、半ば塹壕戦、攻城戦となった。南山は日本陸軍第二軍が1日で陥落させたものの、敵に倍する兵士を擁していたにもかかわらず総兵力の10%を超える兵員を失ってしまった。

概要

鴨緑江会戦の後、第二軍は本国より海路を使って遼東半島(大連の西方、塩大澳から上陸)に兵を進めた。目的は大連(当時はダルニー、現在の中山区周辺)まで占領し旅順要塞を陸路からも孤立させてしまうことである。ロシアの旅順要塞駐屯部隊の一部が突出し大連への隘路となっている南山に野戦砲114門と機関銃を据え付け、塹壕と鉄条網、地雷を備えた近代的陣地を構築した。日本陸軍がこのような近代的な陣地に攻撃をしかけるのはこれが初めてであったが、中国人から得た情報により、要塞の構造は把握していた。

5月25日に第四師団による攻撃が金州城に対して開始されたが、失敗に終る。 第一師団からの増援2個大隊を加えた三回目の攻撃によって金州の攻略が完了した。その後26日になって南山に対して攻撃が加えられた。金州湾からの砲艦艦砲射撃が攻撃を援護したものの、第二軍は凄まじい損害を受けた。また砲艦鳥海が反撃を受け艦長の林三子雄大佐が戦死している。しかしながら粘り強い日本の攻撃により砲弾の尽きたロシア軍は撤退を開始。第二軍は南山を占領して一応の勝利を収めた。

第二軍は大連まで占領し弾薬の補給を受けて、旅順要塞ロシア駐屯部隊の抑えとして第1師団を残して満州へ向かった。撤退したロシア軍は若干の抵抗をしながらも旅順へ撤退し、後に第三軍と対峙することとなった。第三軍の司令官乃木希典も、第二軍に所属していた長男・勝典をこの戦いで失っている。

現在の南山

南山の山頂部は1993年、「南山日俄戦争遺址」として大連市級文物保護単位に指定され、「南山戦蹟碑」址や「金州城外斜陽に立つ」詩碑址が残っている。


南山の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 04:43 UTC 版)

奥保鞏」の記事における「南山の戦い」の解説

「南山の戦い」を参照 第2軍第1師団第3師団第4師団騎兵第1旅団編成され遼東半島における拠点として大連確保することを目的とした。 5月5日から13日にかけて遼東半島上陸し5月26日午前5時からロシア軍陣地である南山への攻撃開始した第2軍ロシア軍堅固な防塁機関銃斉射により大苦戦となったが、奥は攻撃断念せず苛烈攻めた午後5時になり海軍砲艦による艦砲射撃加えた突撃行い午後8時にようやく南山占領した。この時の死傷者は4,387名にのぼり、損害数を聞いた東京大本営は「ゼロ1つ多すぎるのではないか」と耳を疑ったという。この戦いにより、「南山の奥」としてさらに勇名を馳せることになった

※この「南山の戦い」の解説は、「奥保鞏」の解説の一部です。
「南山の戦い」を含む「奥保鞏」の記事については、「奥保鞏」の概要を参照ください。

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