遼陽会戦とは? わかりやすく解説

遼陽会戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/07 13:27 UTC 版)

遼陽会戦(りょうようかいせん、リャオヤンかいせん)は、日本ロシア満州朝鮮半島などの権益を巡り、1904年明治37年)に勃発した日露戦争における会戦。同年8月24日から9月4日まで行われた。両軍の主力がはじめて衝突した戦いで、ロシア軍は15万8,000の兵をもって防御網を展開し、日本軍は12万5,000の兵で、計28万の兵が衝突。鴨緑江会戦と並び、日本軍にとってははじめて近代陸軍を相手にした本格的会戦であった。


  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 沼田 Numata, 多稼蔵 Takezō「第6章 遼陽附近の會戰及び旅順要塞第一囘攻擊」『日露陸戦新史』(第4刷)岩波書店、東京、1940年11月23日、94-100頁。ISBN 978-4-00-400078-5https://www.worldcat.org/oclc/672640801 


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遼陽会戦

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奥保鞏」の記事における「遼陽会戦」の解説

「遼陽会戦」を参照 得利寺での勝利後、新たに第6師団指揮下に加え平、大石橋での戦闘勝利したその後第5師団第4軍指揮となって去ったが、8月4日までに遼陽をうかがう位置まで前進した24日第1軍続き第2軍第4軍とともに25日作戦行動開始した鞍山站は抵抗なく占領でき、続いて攻めかかった首山堡は頑強な抵抗遭遇し屍山血河惨烈戦闘となった。後に陸軍軍神第1号となった第3師団歩兵第34連隊第1大隊長の橘周太少佐戦死したのも、この首山堡であった31日朝に1度占領する奪還され、第2軍崩壊危機面したが、9月1日第1軍によるロシア軍左翼への側面攻撃動揺したロシア軍追撃し4日朝までに遼陽一帯占領することができた。

※この「遼陽会戦」の解説は、「奥保鞏」の解説の一部です。
「遼陽会戦」を含む「奥保鞏」の記事については、「奥保鞏」の概要を参照ください。

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