日露戦争講和
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 02:15 UTC 版)
1904年(明治37年)に日露戦争が勃発する。日本は遼陽会戦・奉天会戦で勝利し、日本海海戦でも勝利した。しかし日本の国力は限界に近づいており、日本は米大統領に日露講和の友誼的斡旋を希望した。これに応じた大統領セオドア・ルーズベルトは1905年(明治38年)6月9日に日露両国に講和を勧告し両国は休戦に応じた。そして講和会議をニューハンプシャー州のポーツマスで開きポーツマス条約を締結する。しかしこの条約には賠償金の規定がなく、戦争に勝ったと考えていた日本の一般国民には不満が多い内容であり、日本国内ではいたるところで暴動が起きた(日比谷焼き討ち事件など)。 一方で、ポーツマス条約の結果日本が管理権を得た東清鉄道の南満州部分について、エドワード・ヘンリー・ハリマンとの共同経営が約束されていたが(桂・ハリマン協定)、小村寿太郎外相の反対により日本が単独経営する南満州鉄道となった。 1909年(明治42年)12月にアメリカは鉄道中立化案を提案したが、翌年1月に日露両国が正式に反対し、提案は流れた。講和によって中国での権益を得ることを期待していたルーズベルトは、これ以降反日感情を強くした。またアメリカの国民の間からも人種差別的な黄禍論が急速に盛り上がり、のちの日米開戦へとつながっていくことになる。 日米関係の急速な悪化により、第二回日英同盟協約で日本との同盟を攻守同盟の性格に強化したばかりのイギリスは、日米戦争に巻き込まれることを畏れ始めた。 1908年(明治41年)10月には世界一周を行っていたアメリカ艦隊グレート・ホワイト・フリートが日本に寄港した。11月には高平・ルート協定が締結され、日本による満州・朝鮮支配と、アメリカによるフィリピン・ハワイ支配を相互に承認した。
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