高平・ルート協定
高平・ルート協定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 02:17 UTC 版)
「高平・ルート協定」も参照 1908年10月18日、世界周航中のアメリカ艦隊が横浜に到着すると、民衆も提灯行列でこれを迎え、25日までの滞在中、日本では政府や民間主催の式典が数多く開かれ、メディアも大々的に報道して親米的な雰囲気が醸し出された。小村は、この機に対米関係の調整を図るべく、艦隊離日の25日、高平小五郎駐米大使に日米協商交渉を指示し、それを受け、高平は翌26日にルーズベルトに小村の協商案を提出した。大統領はこれに賛意を示し、11月7日より高平とルート国務長官により交渉が始まった。11月30日、日米両国は高平・ルート協定に調印した。条約の形をとらなかったのは、孤立主義の伝統の強いアメリカ上院の反対を恐れたアメリカ側の事情によるものであった。内容は、太平洋の現状維持と日米の領土に対する相互不可侵と通商の自由、清国の領土保全と門戸開放、機会均等であり、その文言だけをみると、桂・タフト協定や門戸開放原則を再び確認したにすぎないようにもみえるが、悪化しつつあったアメリカとの間で新たな協定を成立させた意義は大きかった、この頃、小村は外交官の堀口九萬一に対し、「今当分の間自分は英米との関係を穏やかにして行くということを基準にして、日本の外交をやるつもりだ」と語っている。小村はまた、渋沢栄一ら実業界の主要人物に協力を求め、日米実業団の相互訪問を実現させた。
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