にちえい‐どうめい【日英同盟】
日英同盟
日英同盟
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/06 09:54 UTC 版)
日英同盟(にちえいどうめい、英: Anglo-Japanese Alliance)は、日本とイギリスとの間の軍事同盟(攻守同盟条約)である[1]。
- ^ a b c d "日英同盟". ブリタニカ国際大百科事典. コトバンクより2020年7月9日閲覧。
- ^ a b c 君塚直隆 2012, p. 136-137.
- ^ 松村赳 & 富田虎男 2000, p. 23.
- ^ 坂井秀夫 1967, p. 233.
- ^ 坂井秀夫 1967, p. 227-228/235-236.
- ^ 坂井秀夫 1967, p. 234.
- ^ a b 坂井秀夫 1967, p. 235.
- ^ 坂井秀夫 1967, p. 239.
- ^ 池田清 1962, p. 146.
- ^ 坂井秀夫 1967, p. 254-255.
- ^ 河合秀和(1969)p.71
- ^ 坂井秀夫 1967, p. 276-277.
- ^ 坂井秀夫 1967, p. 284-285.
- ^ INC, SANKEI DIGITAL (2016年6月13日). “【日露戦争秘話】日本の戦費調達を支援したのはキャメロン英首相の高祖父だった! 銀行家として高橋是清から真っ先に外債引き受け…(1/3ページ)”. 産経ニュース. 2022年12月3日閲覧。
- ^ 吉岡昭彦 『近代イギリス経済史』 岩波書店 1981年 p.276.
- ^ a b c 片山慶隆『日露戦争と新聞:「世界の中の日本」をどう論じたか』 <講談社選書メチエ> 講談社 2009年 ISBN 9784062584531 pp.179-191.
- ^ 三訂版, 旺文社日本史事典. “ノックス満鉄中立論(ノックスまんてつちゅうりつろん)とは? 意味や使い方”. コトバンク. DIGITALIO. 2023年1月24日閲覧。
- ^ Inc, NetAdvance Inc NetAdvance. “日英同盟|国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典|ジャパンナレッジ”. JapanKnowledge. 株式会社ネットアドバンス. 2023年1月24日閲覧。
- ^ Inc, NetAdvance Inc NetAdvance. “日英同盟|国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典|ジャパンナレッジ”. JapanKnowledge. 株式会社ネットアドバンス. 2023年1月24日閲覧。
- ^ MSN産経ニュース【グローバルインタビュー】 - ヒュー・コータッツイ元駐日英大使「日本の人種差別撤廃条項を米英が否決したのは誤り」(Internet ARChive 保管版)
- ^ 2007年2月18日 NHK BS特集『世界から見たニッポン 大正編 日本はなぜ孤立したのか』
- ^ 波多野勝 1998, p. 83.
- ^ INC, SANKEI DIGITAL (2013年7月30日). “【正論】元駐タイ大使・岡崎久彦 知られざる多国間協議の陥穽(3/3ページ)”. 産経ニュース. 2023年3月31日閲覧。
- ^ “日英同盟が100年ぶりに復活? 防衛新戦略、戦闘機開発…礼賛一辺倒でよいのか:東京新聞 TOKYO Web”. 東京新聞 TOKYO Web. 2023年3月12日閲覧。
- ^ INC, SANKEI DIGITAL (2023年1月13日). “【主張】岸田首相の歴訪 欧州と連携し秩序を守れ”. 産経ニュース. 2023年3月31日閲覧。
- ^ “Prime Minister hosts Japanese PM and agrees historic defence agreement” (英語). GOV.UK (2023年1月11日). 2023年3月12日閲覧。
- ^ “日英同盟が100年ぶりに復活? 防衛新戦略、戦闘機開発…礼賛一辺倒でよいのか:東京新聞 TOKYO Web”. 東京新聞 TOKYO Web. 2023年3月12日閲覧。
- ^ アーネスト・サトウ『一外交官の見た明治維新(下),A diplomat in Japan』坂田精一訳、岩波書店(岩波文庫)1990年、260頁の解説文、サトウは、はじめ1862年から約6年間外交官として、日本に滞在しており、伊藤博文、井上馨の両名とは1864年(元治元年)の馬関戦争以来の旧知の間柄であった。そして1895年に、日本駐箚公使として再来日したのである(なお、両名は長州藩より英国に派遣されており、馬関戦争直前に帰国していた)
- ^ “強化された日英のグローバルな戦略的パートナーシップに関する広島アコード 概要”. 外務省. 2023年5月20日閲覧。
- ^ https://www.facebook.com/wwwjijicom.+“英軍に武器等防護検討 日英首脳が「広島アコード」:時事ドットコム”. 時事ドットコム. 2023年5月20日閲覧。
- ^ 長岡新次郎. “欧州大戦参加問題”. 科学技術振興機構. p. 27. 2023年11月23日閲覧。
- ^ 大正6年6月11日第11駆逐隊第1小隊(松、榊)戦闘詳報
- ^ “欧州に派遣された「女の軍人さん」 : 日赤救護班と第一次世界大戦”. 2023年4月1日閲覧。
日英同盟
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 02:17 UTC 版)
「日英同盟」も参照 日英交渉がなされているさなか、日露協商を模索していた伊藤博文がヨーロッパに旅立ったのと入れ違いに小村が帰国し、9月21日に正式に外相に任命された。したがって、イギリスとは同盟交渉を、ロシアとは将来の連携を見据えての意見交換を、それぞれ併行して進めるという9月11日の会合に小村は出席していなかった。10月8日、小村は林公使に同盟交渉開始を訓令し、交渉のための正式な権限を与えた。 11月に入り、イギリス側から具体的な同盟条約の草案が示されたが、同時にイギリスからはダブル·ディーリング、すなわち二股交渉への警告が思いかけずも発せられた。日本政府部内では日英同盟と日露協商は相互に対立するものではなかった。しかし、イギリスからの警告は、山縣や桂を9月時点での二兎を追う発想から日英同盟最優先の発想へと傾斜させた。 12月7日、桂の葉山別邸で、伊藤と大山巌を除く、山縣・井上・西郷従道・松方正義の4人の元老に桂・小村を加えた元老会議が開かれた。ここで小村は「日英協約に関する意見」を提出し、韓国問題を日本の希望通りに解決するためにはロシアとの間の単純な二国間交渉だけでは到底無理であり、交戦も辞さずの決心を示すか、さもなくば第三国と結び、その共同の勢力を利用して、ロシアにやむを得ず日本の要求に応じさせるかのどちらかしかないと論じた。そして小村は、日露協商は仮に成功しても利点が少ないと主張した。その理由として、日露協商は東洋平和を維持しても一時的なものにとどまってしまうこと、経済上の利益が少ないこと、清国人の感情を害すること、イギリスの感情を害し、結果として同国と海軍力で拮抗する必要が生じることの4点を挙げた。これは、小村自身のロシアへの不信感を表したものではあったが、一方で日英同盟のメリットとして、恒久的な東洋平和、清国における門戸開放、韓国問題の解決、財政上の便益、通商上の利益、防衛負担の軽減など7点を挙げている。小村がこのような二者択一的な問題設定を行ったのは、9月11日の決定に縛られず自由な立場にあったうえに、イギリスからの警告を重くみたためと考えられる。ただし、小村はこのとき、むしろロシアとの戦争を避けるために日英同盟論を展開していた。桂は元老会議に先立って根回しをしており、11月30日に山縣、12月2日に西郷、12月5日に松方の同意を得ていた。これに小村の意見書が奏功して、伊藤による日英同盟締結延期の具申があったにもかかわらず、結果的には元老会議では全会一致というかたち日英同盟締結案を可決したのであった。 元老会議終了後、小村は反対なしで日英同盟推進路線が可決されたことを林董駐英公使に報告し、続いて閣議決定された日本側による協約修正案を伝えた。12月12日と16日、林・ランズダウン会談が開かれ、その都度小村も林公使に指示をあたえたが、現地交渉は必ずしも順調とはいえなかった。しかし、その間、ロシアとの交渉を行っていた伊藤博文が、あまりに非妥協的なロシアの態度に業を煮やして日露協商そのものを断念してしまった。1902年に入るとイギリスの姿勢も軟化してランズダウン侯爵が林公使に修正案が示され、1月18日の林・ランズダウン会談ののち、イギリス側の閣議を経た修正案が1月24日に林公使に提出され、それを受けて1月29日、日本側も閣議決定を行って同修正案を受諾、翌1月30日に日英同盟条約がロンドンで調印されたのである。 日英同盟成立に当時の日本国民、日本国家は喜び、小村は日英同盟締結の功により男爵を授けられた。小村には勲一等と賜金1万円も与えられた。各地で開かれた日英同盟祝賀会に小村も何度か招かれており、政権内での桂、小村の威信は高まった。
※この「日英同盟」の解説は、「小村壽太郎」の解説の一部です。
「日英同盟」を含む「小村壽太郎」の記事については、「小村壽太郎」の概要を参照ください。
日英同盟
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 03:30 UTC 版)
「エドワード7世 (イギリス王)」の記事における「日英同盟」の解説
1895年の日清戦争後、列強諸国による中国分割がはじまり、阿片戦争以来の中国のイギリス一国の半植民地状態が崩壊した。とりわけ満洲や北中国を勢力圏にしていくロシアと揚子江流域の権益を保持したいイギリスの対立が深まった。1900年には中国分割に反発した中国人暴徒たちが義和団の乱を起こしたが、列強諸国の連合軍によりただちに鎮圧された。ロシアはこれを好機として満洲を軍事占領した。これに反発したイギリスのソールズベリー侯爵内閣は、ロシアの満洲・朝鮮半島進出を警戒する日本と同盟交渉を進めた。 1901年1月に即位したエドワードも日本との同盟に前向きであり、同年8月には駐英日本公使林董との交渉にあたっていた外相第5代ランズダウン侯爵ヘンリー・ペティ=フィッツモーリスからの報告書の欄外に「そのような可能性(日露開戦)がある場合には常に日本に心からの支援を与えることが最も重要である」と書き込んでいる。 エドワードは1901年のクリスマスから年末まで家族で過ごす予定だったが、その予定を変更して、12月27日に訪英中の日本の元首相伊藤博文侯爵を引見した。伊藤はイギリス政界から「親ロシア派の巨頭」と看做され警戒されている人物だったが、英語を流暢に話したため、すぐにもエドワードと打ち解けることができた。翌1902年1月4日にエドワードは伊藤にバス勲章ナイト・グランド・クロス(GCB)を叙勲している。 伊藤が帰国した後の1902年1月30日にロンドンでランズダウン侯爵と林によって日英同盟が正式に調印された。日英どちらかが二か国以上と戦争になった場合はもう片方は同盟国のために参戦、一か国との戦争の場合はもう片方は中立を保つという内容だった。そのためイギリス政府としては早急にフランスを取りこんで露仏同盟を結ぶフランスがロシアとともに日本に宣戦布告するのを阻止する必要があった。
※この「日英同盟」の解説は、「エドワード7世 (イギリス王)」の解説の一部です。
「日英同盟」を含む「エドワード7世 (イギリス王)」の記事については、「エドワード7世 (イギリス王)」の概要を参照ください。
日英同盟
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:26 UTC 版)
「ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)」の記事における「日英同盟」の解説
ロシアがいつまでたっても満洲から軍を撤兵させず、さらに韓国にも触手を伸ばすようになったことに警戒を強めていた日本は、対ロシア同盟国を求めるようになった。 ソールズベリー侯爵は日清戦争以降、日本の実力を評価するようになっており、1895年11月の段階で「ロシアの軍事力は日本より劣っているであろう。」「日露戦争が勃発しても日本がロシアに負けることはないと思う。なぜなら、日本は日本本土の基地を使って戦闘できるが、ロシアはウラジオストクからしか戦闘できないからである」と語っている。1900年の義和団の乱での日本軍の活躍ぶりはその信頼感を更に強めた。 この頃イギリスは本国周辺海域の海洋覇権をめぐってドイツと建艦競争になっていたため、「中国艦隊」を増強する余裕がなかったが、ロシアは「太平洋艦隊」の海軍力を大幅増強中であり、戦艦数も装甲巡洋艦数もイギリス艦隊を凌ぐに至っていた。ただし総トン数では極東にあるイギリス艦隊が17万トンなのに対して、極東にあるロシア艦隊は12万トンだったので、まだイギリスの方が上だった。この当時、日本海軍は20万トンの艦隊を有していたから、これを味方につければロシアに対する圧倒的優位を回復することができた。 そうした状況の中、駐英日本公使林董とイギリス外相ランズダウン侯爵の間で日英同盟交渉が進められ、日英どちらかが二か国以上と戦争になった場合はもう片方は同盟国のために参戦、一か国との戦争の場合はもう片方は中立を保つことが約定された。イギリス閣僚の中には日本に一方的に有利な同盟案であるとして、インドも同盟適用範囲に加えるべきという意見もでたが、ソールズベリー侯爵はランズダウン侯爵が取り決めてきた内容だけで十分と判断した。1901年に即位したばかりの新国王エドワード7世も日本との同盟に乗り気だった。 1902年1月3日に親ロシア派の日本の元首相伊藤博文侯爵が訪英し、ソールズベリー侯爵やランズダウン侯爵と最後の交渉にあたった。ソールズベリー侯爵は1月7日に反対派閣僚を抑えて日本との同盟を閣議決定した。こうして1月30日にロンドン外務省で日英同盟が締結されるに至った。 [先頭へ戻る]
※この「日英同盟」の解説は、「ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)」の解説の一部です。
「日英同盟」を含む「ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)」の記事については、「ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)」の概要を参照ください。
「日英同盟」の例文・使い方・用例・文例
日英同盟と同じ種類の言葉
固有名詞の分類
- 日英同盟のページへのリンク