しんせい‐どうめい【神聖同盟】
神聖同盟
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神聖同盟(しんせいどうめい、露: Священный союз、独: Heilige Allianz、英: Holy Alliance)は、ロシア皇帝のアレクサンドル1世の提唱で1815年9月26日に結成されたロシア帝国、オーストリア帝国、プロイセン王国間の同盟[1]。ウィーン体制下における君主間の盟約であり、具体的な政治的・外交的拘束があったわけではない。もっともスイスと教皇庁の傭兵契約は即時再開されることに決まった。
- ^ a b Spahn, Martin (1910). Catholic Encyclopedia. Vol. 7. New York: Robert Appleton Company. . In Herbermann, Charles (ed.).
- 1 神聖同盟とは
- 2 神聖同盟の概要
神聖同盟
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「重機甲乙女 豆だけど」の記事における「神聖同盟」の解説
陸上兵器 L1戦車“チャリオッツ” ガルマ戦車大隊の主力戦車。乗員2名の軽戦車で、通称「豆タンク」と呼ばれている。装備が52口径37mm砲一門のみと戦車としての火力は非力な上、装甲が最大18mmと薄く、戦車砲を一撃でも被弾したら大破する。しかし6.5tと軽量で小柄なため、最大速力は路上で64km/hと素早く、船舶や列車・トレーラーなどの運搬が容易であり、また山岳や急こう配などの悪路を走破できるほどの機動性と、多少横転しても破損しない強度のフレームと履帯を持ち、メーカーが製造費を抑えるために民生用のパーツを流用して製作した車輌なため、規格さえ合えば動力系は一般車輌からも流用でき、戦地でも部品調達が容易という利点がある。 甲3型戦車 ナポリ王国の主力戦車。47mm砲を備える。ダックイン戦法でオスマン帝国軍を迎え撃つが、オスマン帝国軍のヤウズIには至近距離ですら主砲弾を跳ね返され、一方的に撃滅されてしまった。 M13/57“ビアンキ” ローマ第一戦車軍団の主力戦車。ダヴィンチも設計に関わったと言われるヴェロッキオ工房デザインの流麗なデザインを持ち、65mmの装甲を持ちながらも優れた機動力を持ち、57mm戦車砲と75mm榴弾砲の2門を装備している。 T-44“ファランクス” ミラノ公国軍主力戦車。この時代に流行していた「多砲塔陸上戦艦」の一種で、重装甲の車体に152mm連装砲塔を2基搭載する。同盟軍所属車輛の中では数少ないオスマン帝国軍のヤウズⅠを圧倒できる戦闘車輛だが、リアーリオは「前時代の遺物」と評している。 マルクⅣ ランツィケネッキ師団の主力戦車。戦車と言うよりは駆逐戦車と言うべき車輛で、車高わずか2.16mの車体前面に長砲身75mm砲を搭載し、傾斜した装甲は最大85mmにも達し、砲弾を弾き易い設計となっている。しかし、主砲は砲塔式ではなく車体固定式のため目標を攻撃する際は車体ごと回転させねばならず、また低車高故に泥地などの悪路では走行性能が半減するなどヤウズⅠ同様活動範囲が狭くあまり機動戦向きではない。派生型に155mm短砲身榴弾砲を搭載した「シュツンメル」がある。 海上兵器 ジュリオ・チェーザレ ドーリアの旗艦で、地中海最大級の戦艦。排水量36000t。14インチ三連装主砲塔の後方に背負い式の二連装主砲塔を搭載し、このほかにも二連装副砲塔や機銃を多数装備している。 ゴリッツィア/ガリバルディ ドーリアの保有する海賊船で、「ポケット戦艦」とも称される。艦首のシャークマウスのペイントが特徴。通商破壊を主任務とする。三連装主砲を前後に各1基、主砲塔両脇に連装副砲を各1基ずつ計4基装備している。 航空兵器 主力戦闘機G.50“トルッキーノ” 開放式風防が特徴の神聖同盟軍の主力戦闘機。武装は機首の12.7mm機銃2挺のみとやや貧弱だが、480km/hの最高速度とそこそこの運動性でイタリア半島の防空を担う。 機体のモデルはフィアットG.50。 主力爆撃機SM.79“パッキェロッティ” 神聖同盟軍の主力爆撃機。主翼と機首にエンジンを持つ3発機で、爆弾最大搭載量は1800kg。普段は胴体内爆弾倉に爆弾を搭載するが、主翼下や胴体下にハードポイントを設け大型爆弾を懸架することも可能。機体のモデルはサヴォイア・マルケッティ SM.79“スパルヴィエロ”。 そのほか ガリレオ ダ・ヴィンチが開発した暗号通信機。木星の4つの衛星の公転周期に連動して組み合わせを変える仕組みだったが、オスマン軍の暗号解読班により解読され、全ての作戦行動が筒抜けになってしまう。
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神聖同盟
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教皇軍はその後も各地で敗走を続け、1511年6月までにロマーニャ地方の大半がトリヴルツィオ率いるフランス軍の支配下に置かれた。ユリウス2世は劣勢を覆すため新たに神聖同盟を提唱し、スペイン、神聖ローマ帝国、更には北フランスに領土的野心を抱いていたヘンリー8世治世下のイングランドが参加する対フランス一大同盟が結成された。 1512年2月、ルイ12世は甥のガストン・ド・フォワをイタリア遠征軍総司令官に任命した。フォワはラモン・デ・カルドナ率いるスペイン軍がボローニャに進軍してくるのを見てロンバルディアに軍を退き、そこでフランス軍とヴェネツィア守備隊に対して反乱を起こしていたブレシアを陥落させた(ブレシアの略奪)。迫りつつあるイングランド軍を万全の態勢で迎え撃つため、フォワとアルフォンソ・デステはロマーニャ地方における教皇軍最後の拠点となっていたラヴェンナへの包囲戦を開始した。神聖同盟の危機を救うため、カルドナは4月初旬に町を解放するべく軍を進めたものの、フランス軍に惨敗した(ラヴェンナの戦い)。しかしこの戦いでフランス側も総司令官であったフォワが戦死し、ラヴェンナでの略奪に夢中で侵攻作戦にあまり乗り気でないジャック・ド・ラ・パリスが後任となった。 5月になると、フランス軍は次第に劣勢に追い込まれていった。ユリウス2世が新たに雇ったスイス傭兵は、公国の奪還を狙うマッシミリアーノ・スフォルツァと共に仏軍の主要拠点であったミラノへの攻撃を開始した。攻撃の報を受けたフランス軍はロマーニャ地方からの全面撤退を決定し、神聖同盟側の侵攻をくい止めるべくロンバルディアに退いた。ヴェネツィア軍との合流に成功したスイス傭兵の手によって8月にミラノが陥落すると、スフォルツァが新たなミラノ公に即位し、ボローニャやパルマといった諸都市もウルビーノ公によってフランスの支配から解放された。ラ・パリスはアルプス山脈以西への撤退を余儀なくされ、事実上フランスはイタリア半島における権益を全て失った。 フランスの敗北を受け、旧フランス領の処遇について議論するべく神聖同盟の参加国による会合が8月下旬にマントヴァで開かれた。会合では、フランス王がピサで公会議を開催する事を認めたとして教皇の怒りを買っていたフィレンツェに関してはユリウス2世の主張が全面的に認められた。ラモン・デ・カルドナは教皇の要請に応じてトスカーナ州へ進軍し、当時街を支配していた共和勢力を打倒してメディチ家のジュリアーノ・デ・メディチを新たな支配者に据えた。 しかしながら、他の問題に関しては参加国の主張は激しく対立した。ユリウス2世とヴェネツィアはミラノ公国をマッシミリアーノ・スフォルツァに支配させるべきだと主張したが、皇帝マクシミリアン1世とフェルナンド2世はいずれも自らの一族をミラノ公に据えようと謀っていた。教皇はフェラーラ公国の教皇領への即時併合を要求したが、教皇国の影響力の増大を懸念するフェルナンド2世はその提案に反対した。だが最も大きな問題となったのはマクシミリアン1世のヴェネツィアに対する処遇で、彼はこれまでの戦争で占領していたヴェネツィア領を帝国領であると主張して譲らず、共和国への返還を強く拒絶した。皇帝は対仏戦争の終結によってヴェネツィアを疎ましく感じるようになっていた教皇に接近し、ユリウス2世はヴェネツィアを神聖同盟から追放して対ヴェネツィア同盟たるカンブレー同盟を再び結成した。ここに来てヴェネツィアは勢力挽回を狙うルイ12世と手を組む事を決め、北イタリアを両国によって分割する事を定めた条約を1513年5月23日にブロワで結んだ。
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